「アルジャーノンに花束を」を読んだ
読み終わってからちょうど1週間経った。
メモを書き留めておくもの。
前書き
作品の感想を言うからには、その作品の内容に触れるのは当然なのであってその程度のことをわざわざ言う必要はない。わたしの感想ごとき知っても知らなくても、ものがたりを読む人であれば作品をおもしろく読むだろう。
読んだのはこちらの作品であった。
この作品を読んだのは葵さんの感想文を拝見したのがきっかけである。
この感想に触れたことで「いつか読もうと思っていたんだな」と思い出したのであった。葵さんには、いにしえの記憶を呼び起こしていただき感謝するのである。どうもありがとうございます。谢谢你。
高校生のときに、ちょっと尖った切れ者の同級生がこのものがたりを話題にあげていたのを思い出す。何度目かの大学模試の昼休みだったか、小雨の降る寒い日に彼はメガネに水滴のついたまま最近読んだ本の話をしたのだった。その頃わたしは、清水義範のパスティーシュを片っ端から読んでいたように思う。
その頃からわたしは、日本語で書かれたものすらよくわからないのに、翻訳された外国のものなどわかるだろうか、と漠然とした疑問を持っていた。そうして長い間外国の作品を読むことなく過ごした。
外国のものを読んで記憶に残っているものといえば、ドストエフスキーの「罪と罰」、カフカの「変身」くらいである。「ゲド戦記」や「はてしない物語」といった名作に触れたのも大人になってからである。「禅とオートバイ修理技術」は、とある方の紹介で知った。わたしはもともと本をたくさん読むことができないので、その程度しか頭に残っていない。そうして今回、この作品を読んだのであった。
多面的なものがたりを読んだと思うのだけれども、心に浮かぶ感想に一貫性を持たせるためには、その一つの面から書き進めるようになる。器用な人であれば心に思うことを幾重にも重ねたわかりやすい文章に仕立てられるのだろうが、わたしにはできないのである。仕方がない。言い訳である。感想を書き留めるにあたり原稿用紙4〜5枚と制限されないのは大人の特権であろうか。
さて。
本を読んだあと、ぼんやり頭の中に浮かんだ歌。
小倉百人一首に採られたこの歌の解釈について、こういわれている。
その情景描写に続けて、このような解釈もある。
村雨のように突然降ってくるいくつもの出来事に翻弄されていたかと思えば雨は去り、去ったかと思えば陽が射して、陽に照らされたそばから霧が立ち上っていく。村雨が去った景色を眺めながら思うことは。
ひとつの歌にも見方によっていくつもの解釈があり得る。いくつもの解釈があり得るのは、作品の持つ魅力であり、ふところの深さである。
感想のようなもの
わたしが読んだのは、人の一生を数ヶ月で駆け抜けたチャーリイというひとりの男と彼を取り巻くものがたりである。
一心不乱に駆け抜けた人生 (ものがたりの中でそれは終わってはいないのだが)において、いつも心にあったのは幼い時の記憶、両親のいさかいと母親からの仕打ちである。いちばん大きな存在であった母親からの仕打ちとそれを受けた自分の精神的・肉体的な反応は彼の記憶の中に刻み込まれている。
本人が忘れてしまっても記憶の引き出しにはそれがしまわれていて、ふとしたことをきっかけにその引き出しが開くのである。
ものがたりの中で作者は、チャーリイに自己を冷徹に観察するまなざしを与えた。記憶を反芻するチャーリイは、幼少時代に母親から受けた仕打ちによって自分の身体に現れる具体的な反応から目を反らさない。それをただ眺めて描写することで心理面の理解へ至るように思える。これは以前に読んだ「禅とオートバイ修理技術(※1)」にも通じる自己を省察する方法であり、日本的な文章とは異なる印象を持った。過去を振り返る描写の背景としてプロテスタントとしての考え方、あるいはその硬直した思想への作者なりの立ち位置があったようにも見える。
ものがたりでは、その過程で言葉の大切さが語られる。人が思考するにはそれに見合ったレベルの語彙の使いこなしが必要になることをチャーリイが獲得した知識をもとに説明される。
ひとが考えるにあたっては語彙と視野とが必要になる。「大人になる」というプロセスはものごとを俯瞰して見られるようになる過程であり、自分以外の視点を獲得する過程でもある。そこにはまず考えるための言葉が必要であり、言葉を結びつけるための知識が必要であり、頭のなかにまだらに打たれた知識のプロットを紐づけるためには考える力がいる。チャーリイは驚くべき速さで知識と考える力を獲得した。そうしてなお彼は大人になれないのであった。彼は人と親密になりたいと願いながら一方でこのように自覚していた。
チャーリイが獲得したものは、自分で考え理屈で征服できることばかりであった。そこにうすうす気づいてはいた。気づいていたから彼は「情緒的にはまだほんの子供」であったと自分から発言するのである。他人が目を見張るような思考力をわがものにしてなお届かない「情緒的」なものとはなにか。
ここでいう情緒とは、周りの環境を手がかりにして、継続的な時間のなか自分と他者との相互作用の積み重ねによって自分の中に育まれる主体性、つまり心ということができるだろう。他人との関係において調和を取りながらほどよい距離を保つこと。それは他人の心を推し量ろうとする思考の動きでもある。
彼は、猛烈な勢いで知識を得ても心は未熟なままだというもどかしさを抱えていた。しかし彼でなくとも一般論として、人間の心の成熟は知識のあとからついてくるもので、その成熟には自分が思っているよりも多くの時間がかかり、その成長がゆるやかであるがゆえに自覚しづらいものである。具体的には「自分はもう成熟している」と勘違いする形を取って未熟さが表出する。
ここを少し開いてみる。心の成熟、情緒的な成熟があるとすれば、それに到達するために知識を獲得するのとは違う時間の流れが必要になる。その成熟は(それがあるとすれば)、まず他人の言動を知り、さらには人間以外にも世界を構成しているたくさんのものごとがあると知ることから始まる。そして、それぞれは自分とはまったく違っていて自分の意のままにならないという事実をひとつひとつ時間をかけ実感することを積み重ねて、成熟への道を一歩ずつ進むのである。となれば成熟とは、自分の認識する世界が広がるがゆえに自らの存在の小ささを思い知ることであり「身のほどをしる」ことである。これは、頭で考え本を読みなにがしかの学問を修め理解を深めたからといって、一朝一夕に身につくものではない。「多くの知識をわがものにすること」のみでは成熟とは言わないのだ。
チャーリイはあまりに多くの知識を短期間に吸収したあと、過去の記憶が再生される過程においてわだかまりや違和感を感じる形で、感情が遠くに置き去りにされていることに気づく。そういう未熟さを自覚して、その先にある心の成熟を認識したのであった。
知識や理屈優先で人間を判断することが生むもののとしてチャーリイのなかに「自分は他人に理解されていない」という感覚、あるいは「自分は自分を理解していない」という感覚、疎外感があったのではないか。あまりに思弁的な人間は自分や他人の存在と、その対象に抱く自分の感情との折り合いをつけられないこともある(※2)。
思弁的であることは有能と等価とされることがある。それは等価ではないのだがそこを勘違いして一定の「べき論」に嵌まり込み、それが唯一正しい道だとしがみついてしまう例はいくつもある。それを理性の力・俯瞰した視野で律することができるかどうか。
チャーリイはそこで踏みとどまった。自分をもっと知りたい、まだ自分のなかにある知らない部分を理解したいという好奇心はあっただろう。思考力を得た彼のそういった好奇心は、道徳観とは別のものである。チャーリイが自分を律することができたのはなにより、母親が願った姿になりたいと思っていたからではないか。
藁にもすがる気持ちで母親が願った「いい子」になった今を、母親その人に認めてほしい、と強く願ったからではないか。
その願い、一番近かった人に認めてほしいという渇望、「かしこくなりたい」というあこがれは、疼いていた心の中のずっと奥、自分に辛く当たる前の母親の言葉を源として、絶えることなく湧き出すものであった。それは母親の態度が変わった後も彼を動かし続けたのだ。
この点からも、このものがたりは幼少期の体験の重要性に焦点が当てられているように感じる。それは一人の人物にのみフォーカスされてはいるものの、結果的に他の人物についてもその背景に何があったかを考えさせる描写になっている。フェイ、アリス、ノーマといった女性を順に思い浮かべると、チャーリイ自身の視点を通してその人格形成に何があったかあるいはなかったかを推し量ることができる。
アルジャーノンに花束を。なぜ。アルジャーノンだけが自分のたどった道のりを知っているからか。同情。寄り添い。シンパシー。それすらどこか記憶の向こうへ置いてきてしまい「アルジャーノンはねずみだけれど、ぼくのともだちだからひとりぼちだとさみしいのです」という単純な考えからそう思ったのかもしれない。
たとえそうだったとしても、その心には嵐の中を駆け抜けてきたような彼の数ヶ月が刻み込まれていて消えることはない。人間の心の中にあるものは決して消えてはしまわないのだ。ひととはそういうものなのだ。
ものがたりが3月の経過報告で始まり11月で幕を閉じるのは、彼のたどった道のりがたまたま芽吹きの春から晩秋にかけてのものであったからであり、それは人生のメタファーでもある。それを思った時に寂蓮法師の歌が心の中に浮かんだのであった。
おまけ
(※1)
失ってしまった自分の過去と現在、父親である自分と息子との関係、世界を理解しようと渉猟した結果行き着いた哲学、すべてが一点に収斂していく。それをオートバイに乗った旅とともに味わうことができる極上のものがたり。著者の挙げる哲学だけでは哲学史としては不十分であろうが、自分で考え真理にたどり着こうと試行錯誤する姿勢に、読み手も熱くなる。
(※2)
思弁的な人間を描いたものがたり、と思ったときに昔読んだ作品に思い当たった。町田康の告白。理性が勝ち、理屈でものごとを理解しようとする主人公の熊太郎に、彼自身の感情はついていったのか。彼の持っている能力は、思弁的な彼の思考を助けることができたのか。ひとがひとであることのおかしさとかなしみ。
おまけ😁
チャーリイのもつ純粋さ、彼とアルジャーノンというねずみの組合わせは、もしかしたら後のこの作品のヒントになったのかもしれない、というのは勝手な憶測だけれど。
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