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富士の麓のはつ春

めでたき新年に、
ありがたくもない天災を被った方々も
大勢おられます。
天災は季節も時期も時刻も選びません。
先ずは被災された多くの皆様の
御生命の無事をお祈りします。

さて。

富士吉田。
御師の街。現在も存続する御師があり、名残だけを留め役目を終えた場所もある。この富士吉田のランドマークが金鳥居。

下吉田の「冨士山下宮小室浅間神社」から真っ直ぐ傾斜を登る路は、この金鳥居をくぐり、かつては左右に御師の宿坊を配して「北口本宮冨士浅間神社」へと至る。
この宿場街が完成したのは元亀三年、武田信玄の西上作戦の少し前。小山田信茂の指図とされる。

上吉田の屋敷割図(明治初期) 「上吉田宿と御師」の看板案内図より
「上吉田の屋敷割図(明治初期)」
ここが要の社となり、宿場街が完成したという
旧外川住宅内より
北口本宮冨士浅間神社の大鳥居
ここが富士登山の起点

そして、一富士二鷹三茄子。

初夢にあやかりたい庶民の願いです。


 元亀三年(1572)正月。
 吉田新宿の整地が完了した。根神社を先行して移転し、地鎮祈願を盛大に行ったおかげだろうか。大きな事故も起きなかった。西念寺も新しい境内地を設け、あとは人の暮らしが染み込むのを待つばかりだった。寺社だけは年明け前に移転を済ませ、新年の祈祷がここから始まった。
 まず、御師たちが率先して転居した。
 御師に釣られて商人が移転すると、生活者が続々と移った。この吉田新宿は大きな都市計画構想で設計されたものだ。今日、上吉田・中吉田とよばれる一帯がこれに相当するから、いかに広大なプロジェクトだったかが想像できよう。この新宿をおおよそ三つの街割りで用途を定めたと考えられる。今日で云う用途地区とも考えられる。まさに都市計画と公言して憚らない、自治都市・吉田宿にふさわしいものだった。
「谷村様のおかげにて」
 正月早々、御師衆が挙って信茂のもとを訪れた。
「吉田は郡内のなかの堺になればええずら。ただし南蛮貿易は適わぬがな、多くの商人に来て貰えることを望むし」
 信茂のいう堺の具体的な姿を、多くの御師は知らない。情報として朧気に知る限りである。自治の街という意味では、堺と気質が共通しているだろう。あちらは商人が街を引っ張り、こちらは御師が引っ張るという違いはある。
 信茂は吉田そのものを支配する気はない、
 ただ統治の一助をするのだと公言した。曖昧な物云いだが、御師たちは素直にその言葉を聞き入れた。
 大外川の仁科六郎右衛門は御師を代表して、雪しろの脅威が軽減したことの感謝を陳べた。
「こののちは若い世代に託し、年寄りは隠居するものなり」
「こののちも仁科六郎右衛門には教えて貰いたい。六郎右衛門だけじゃないぞ。年寄りを邪険にすることは、致すまじ」
「その言葉だけで満足にて」
 吉田移転は、御師の若返りと活性化の転機だった。
 資料によれば、江戸時代中期の吉田管理は御師大玉屋である。もしも変わりがないとすれば、当初からそうだった可能性がある。当時の大玉屋は、与覚斎という人物が当主である。移転直後の吉田宿について委細の姿は判別適わないが、どのような物事も最初が肝心である。恐らくは町衆による統率と団結があらたにされ、同時に、小山田家との一致が確立されただろうと想像できる。
 三月。
 信茂は甲相同盟復活により、富士参詣道者が増えると見なした。そこで、刑部新七郎に対し、諸役所を半関(通行料の半額)にするよう指示した。
 吉田宿はこれに応じた。その結果、莫大な利を生んだとされるが、この思い切った移転実施が福を招いたのだと、上も下も吉田衆はその損得勘定の結果を喜んだ。

NOVLEDAYS「光と闇の跫(あしおと)」第14話「軍勢、西へ(中)」より


吉田宿完成のこの年、武田信玄は遠江へ進軍、三方ヶ原で徳川家康を打ち負かし、上洛か否か、天下の注目が注がれました。小山田信茂もこの陣中にあって、三方ヶ原の口火である石礫の先陣を飾っております。

しかし翌年、武田信玄は南信州駒場にて病没するのです。

縁起のいい富士の麓が発展していく影で、武田滅亡の足音がひたひたと迫っていた。
このことも、新春富士詣と併せて心に留め置いて下さい。


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