見出し画像

あれから10年

ぶっちゃけ寺でおなじみ千葉住職のお寺、宝林寺。
2014年10月5日、450年祭に御呼ばれをいただいた。丁度台風が近づいていた日で、帰りは通行規制前だったので、半泣き状態でアクアラインの橋上を急いだ記憶が生々しく残っている。
台風は……もう、御免だ……(´;ω;`)ウゥゥ

赴く前に久留里城に寄り道した。いまも、ようやく道の施工が直ったみたいだが、10年前とは違うのは、この3月から天守閣まで近づけたくらい。

10年ひと昔とは、よくも云ったものだが、歳月を噛みしめて、昨日は久留里城を歩いた。先週放送のタカトシには悪いが、ワシは、近くまで取ったどお!


曹洞宗冨士山宝林寺。
ここは、「南総里見八犬伝」の伏姫モデルとされた、里見義堯の娘・種姫の庵がその前身である。種姫と書いて〈ふさひめ〉と呼ぶのだ。イントネーション的に八犬伝は、もじったのだろうと察することが出来る。

この450年祭は、大きな節目のひとつだったと思う。
この年、2014年は、里見正史の大きな節目だった。
丁度、正史第2作目の「夏の波濤(房州日日新聞・里見義頼、義康を描いた)」連載時期だったと思う。

6月7日には千葉住職を導師にした、里見戦国国府台合戦450年供養祭が行われた
9月7日には鳥取県倉吉市で例年の神事に400年国替の意味合いも含まれる
10月18日は南総里見まつり前の午前中には館山城で
「里見氏安房国替400年」、倉吉へ国替された無念を
供養する祭事があった。導師は慈恩院副住職。  
11月1日は高野山光明院にて里見忠義と妻子の位牌新調
そして奥の院五輪塔の案内柱設置の祭事が行なわれた 

ありがたいことに全部参加させて頂けたのは、関係各位様の御厚意によるもの。感謝なのである。

で。


この仏事から、早いもので10年が経つ
その間の里見氏に対する認知度は、NHKの放送もあって、少なくとも「信長の野望」のモブから大きな出世はした。しかし、里見正史を理解せぬ者は多いのである。大きな変化はない。
里見氏大河ドラマ化実行委員会などは、チャンスを活かせずに無為な時間を浪費したのではあるまいか。

種姫墓所

里見氏大河ドラマ化実行委員会のなかでは、大多喜と組もうという声があったらしい(直接は聞いていないが、内部より小耳にした)が、どこの世界に敵の陪臣に「一枚載せて」という情けない話があるだろうか。これが、まだ生きている話だったら、情けない。

種姫は里見義堯の娘であると同時に
伝説の副将初代正木時茂の嫡男・信茂の正室。

正木信茂は第二次国府台合戦で討ち死にした。
この供養祭は、すべてがつながっているのだ。

「正木の所領・小田喜(大多喜)と手を結びたい」
くらいのことを里見側が云えないようでは、駄目なのである。勿論、官民協働の実行委員会だから、公にこそ意識が求められるよね。

この日、夢酔個人的には、大きな出会いがあった

以前より御尊名を承知していた遠山あき先生と言葉を交わすことができた。当時の最高齢現役作家だったと記憶する。
この出会いが、のちのち先生の創設した「槇の会」に関わることになろうとは、当時は思いも寄らなかった。のちに伺ったが、槇の現会長である乾浩氏も、遠山先生から夢酔のことを耳にされていたとか。勿体ないことだ。
一期一会。
遠山先生はこののち鬼籍に入られたから、まさにただ一度の出会い。その場所が宝林寺というのも、極めて感慨深いこと。

あれから10年
このさき10年……

今年は、あの仏事から10年が経ちます。
何か動くことがあれば、とても意味のある2024年になる気がしております。

この記事が参加している募集