そこそこ読書 中学校教科書にでてくる詩の本 詩のわかる本 中学1年 畑島 喜久生 編
詩とその解説が紹介されている。1997年に書かれたものなので、たいとるのように現在の教科書に使われているかどうかは分からない。
個人的に紙風船という詩が気になった。詩というよりも紙風船という存在である。薄い紙に息を入れて球を作って遊ぶ昔の子どもの遊具であったようだが今ではほとんど見かけない。本文中の注意書きにも「いまは見かける事はほとんどない」とあるので、相当に古いと思われる。
今の子どもたちは紙風船で遊んで楽しいのだろうか。紙風船で遊ぶ年齢が分からなければ比較のしようもないのだが。
遊びの楽しさと遊ぶ物の関係性についてに疑問を感じた。今の遊びは非常に高度な技術を使っているものが身近にある。スマホやゲーム等がそれにあたる。操作自体は簡単だがグラフィックや演出等常に進化している。では、それに伴って私達の楽しさや幸せは上がっているのだろうか。高価な技術が使われている物を使う事で絶対的な総量として感動は増えるのだろうか。
単純に昔の物を否定している瞬間、過去と比べている瞬間だけが感動する場面ではないだろうか。比較しなくなり慣れてしまった時楽しさは消えてしまうのではないかと感じる。
紙風船で遊んでいた子供は何を考えていたのだろう。どんな気持ちだったのだろう。
企業が顧客の獲得を目指して設計されているゲームやアプリの存在があまりにも身近にあるのは、背筋が凍るような思いもある。生まれながらにして競争の材料に組み込まれているというのは考え過ぎだろうか。
私達が高度なゲームを遊ぶ意義とは一体何なのだろう。実は当時の子どもたちが紙風船で遊んだ時の楽しさと実感としては変わりがないのかもしれない。
私は今のゲームは好きだしそれに全力を尽くしている存在がいる事も知っている。それらを否定するつもりは無いが、何かとつながりすぎている、それが意識されないという事もまた事実である。時には紙風船のような素朴で限定された楽しみを見つけるようにしたい。