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太陽と闘った猫
9年程前、野良猫がリビングの掃き出し窓からうちを覗いた。
ほっぺがぱんぱんの赤茶猫。餌はあげず、そのうちに来なくなった。
再び見かけたのは1年後、パート先でのこと。近いとは言え大通りを挟むから驚いた。ゴミ捨て場から見えるお宅の庭に、チョンと座っている。
「おーい おーい」思わず言うと
「俺、忙しいんだよ。」迷惑そうにこちらを振り返る。
その日、うちの庭に戻って来た。
猫は毎朝、窓の前の茶箱でご飯を待つようになった。
「あかべぇ」と名前を付けた。
ある日庭仕事をしていて、気が付くともう夕飯の支度をする頃である。
片づけをしようと顔を上げると、積み上げた枝の向こう、夕日の中にあかべぇがいる。
あ、来ていたの
あかべぇはこちらを見て逃げない。じっと耳を傾けている。
恋の季節になるとしばらく顔を見せなくなった。そうしちゃあ、痩せてぼろぼろになって帰って来るのだ。
右前足に怪我をした。少しお高いパウチに薬を混ぜると もしゃもしゃ食べて、怪我はすぐに治った。
ある日、あかべぇがまた右手をあげている。
「パウチが欲しいの?カリカリで我慢ね。」
切ない顔をする。よく見ると今度は頭に怪我をしているのだった。
一昨年の春もあかべぇは酷い怪我をした。左頬が腫れて血がべったりこびり付いていた。
茶箱に座り、右手をちらっと上げる。
腫れが引いても頬の皮はぶら下ったまま、投薬してもなお治癒に時間がかかった。
夕方茶箱で寝ているあかべぇの呼吸は荒い。気が付けば出会いから随分月日が流れていた。暑くなったら持たないと思った。
その頃、近所に引っ越して来た冴木さんというご夫婦がやはりあかべぇにご飯をあげていた。
「もう、外では夏を生き抜けないと思います。」そう相談すると「全身全霊で守って見せます。だから引き取らせて下さい。」と仰る。
わたしはあかべぇを保護し、去勢手術のあと病院から一旦うちに引き取った。
2段ケージに仕舞われて、頭陀袋みたいなあかべぇは静かに光を湛えている。検査で猫エイズが陽性だった。よくぞここまで発症せずに来たとしみじみ眺める。
「おまえ、かっこいいねぇ。」
あかべぇはじっとこちらを見た。
私が話しかけているうちに寝てしまった。無邪気な顔を眺め動くことが出来なかった。
手にご飯を乗せれば柔らかな舌がそっと指先に触れる。
数日して落ち着いて来たあかべぇを冴木さんに託した。
冴木さんはあかべぇを外に出さない方針にしたようだった。お家の前を通ると、鳴き声がした。年末、あかべぇは逃走した。
春が来て、もう会えないかと諦めた頃だ。自転車で通りかかったお庭をふと見ると赤猫がいる。「あっ」私は自転車を止めて猫をみた。
猫は私を見て、右手を上げた。
5月、あかべぇは我が家の庭に戻って来た。ご飯をあげると皿に血が付いた。酷い口内炎で猫エイズが発症していた。
獣医さんに相談し薬の処方をしてもらい、あかべぇは順調に体力を回復し始めたようだった。
6月。背中にこびりついていた毛玉が取れ、皿に血が付くことも殆どなくなった。
でも夏が近づいていた。
7月暑さが酷くなる。あかべぇは家の中に居着かない。
私は断熱材を巻いた小屋を作り、夜は保冷剤を入れてやった。警戒するかと思ったが入ってくれた。
8月、あかべぇはやせ細った。口内炎は凄まじく、とうとう彼の顎を突き抜けてしまった。
それでも、腰が立たなくなってもまるで8年前と同じように茶箱から悠然と庭を眺めていた。8月半ば、私は痛み止めだけを好物に混ぜてあげていた。
太陽がひときわ激しく照った日の、翌朝。
庭の犬走りに涼を求めて寝そべるあかべぇの瞳はもう他の世界をさまよっているようだった。朝4時半。今日が最後だ、と思った。
あかべぇは庭の中の冷たい場所を求めて這う。鈍い心臓を励ますように全身で空気を吸い込む。酸素は、どこかに抜けて行ってしまうようだった。
痛み止め入りのフードを舐めると、ふ、と瞳孔が開いて柔らかな顔になる。それから木陰に転げ、這っていく。近くに水を撒き、氷を置いた。
10時。太陽はし烈にあかべぇを刺す。
11時。あかべぇが小さな声で鳴いた。錯乱しているようだった。ふと、家の中からも鳴き声がしたような気がした。ほんの一時わたしは庭を離れた。
あかべぇは、庭に置いた小屋の僅か10センチほどの隙間に頭を突っ込むようにしていた。そこが涼しいように思ったのだろうか。
駆け寄ると、死んでいた。水と氷で、あかべぇがいた場所は冷たかった。
「よかった」
太陽と闘った猫の魂は激しく強かった。厳しいまでに透明だった。
(作中の人名は仮名です。)
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