冬の蝉 (掌握小説)
都心に雪が降った夜。
夕飯の支度をしながらしたたかに呑んだが、不安を狂気に昇華しただけだった。
雪に頬を叩かれてやっと、鍵をどうしたかなと気付く。
思い出せるのは、玄関先のコンクリートに落ちていた蝉の死骸だけだ。
時折風に流されては蹴り戻される侘びしい永遠。
塗り潰せ。肺になだれ込む夜気も、暗い道も。
窒息するほどのアルコールで。
店内に入るとマスターはまだ準備をしている。
「いいですか」
頷いた。
離れた席に座った。
「こっち来なよ」近くの席を出して、彼はカウンターに入った。
「雪で客が来ない。」
「寒かったです。」答えはない。
カウンターの中でグラスが怒ったような音を立てる。
マスターの手は掌の張り出した、指の短い手だった。
その手が華奢な硝子を包み、尖らせ空間に浮べてゆく。
「のみたい」
「飲み過ぎ。別にいいけど」
麝香。青白い照明がついて、店は金魚鉢になる。
並んだグラスが愛されているのよ、と無邪気に自慢し、閉じ込められた酸素が揺らぐ。
「ウォッカリッキー下さい」
舌打ちが聞こえ、張り詰めた儀式のあとグラスを渡される。
「おかわり」グラスを返す。
「よけてよ」マスターはグラスに添えた手を見ていう。
「避けないと、掴むよ」
カウンターの上で、指先がぶつかった
男は身を乗り出す。
背骨が痺れた。
この人は私のことを知りたいだろうか。
私はこの人を知りたいだろうか。
身を乗り出した男の怒りが、わたしの耳に渡ってくる
「あんた、依存症だよ」
「知ってる」
「嫌いなんだよ、」
「知ってる なんで泣いてるの」
「ちくしょう」
知りたい。金魚鉢が粉々になるくらい。
冬の蝉たちは奇跡を掴もうとする。