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Broken Rage(2024)

Broken Rage(2024、Amazon MGMスタジオ、62分)
●脚本・編集・監督:北野武
●出演:ビートたけし、浅野忠信、大森南朋、仁科貴、宇野祥平、國本鍾建、馬場園梓、長谷川雅紀(錦鯉)、矢野聖人、佳久創、前田志良(ビコーン!)、秋山準、鈴木もぐら(空気階段)、劇団ひとり、白竜、中村獅童

北野武監督の新作はAmazonプライムビデオの配信という形で公開された実験的中編映画。

それでいてAmazonがMGMを買収したことにより、あのハリウッドメジャー資本の象徴ライオンのマークからスタートというのが感慨深いというか違和感というか。

主人公はネズミと呼ばれる初老の殺し屋。

Mという依頼人から殺しのターゲットの情報を受け取り、殺しを淡々と行うというもので、舞台がキャバクラや銭湯になってるあたりから『アウトレイジ』のパロディと見なすことができる。

そしてSpin Offという手書きのテロップから一転、同一のプロットでギャグモードにアレンジされた展開が繰り広げられる。

笑い=フリ×オチ+フォロー

前半部:フリ→後半部:オチという狙いではあるが、あくまで構造上のことで、後半パートだけを切り取ってしまえばその中に明確なフリは存在せず、ギャグが突如放り込まれるという、非常に乾いたタッチである種の寒々しさを感じる。フォローももちろんない。

初期作品ではギャグの前後に長い間を置くことにより、存在するはずの(フリ)→オチ→(フォロー)の流れを空白で表現する手法が見てとれたが、今回はそのフリ自体を全て前半部分に集約させるという因数分解的手法のように思えた。

フリ=kとする.
オチ=p, q, r, s…とする.

[本来の映画]:kp+kq+kr+ks+…

[Broken Rage]:k(p+q+r+s+…)

例えば落語では枕の中の小噺やネタが本題の演目の方に係ってくるという構成はあるけどそれとは異なるし、ミヒャエル・ハネケ監督『ファニーゲーム』での強引な巻き戻しのようなメタ的手法とも少し違う。

ラーメンズの銀河鉄道の夜のコントも少し思い出したけど、どちらかというと『こち亀』で時々あった実験(お遊び)回のような、ギャグ漫画的手法に近いのかもしれない。

オチ≒暴力

[仮説]:この映画に本来?あったストーリーには笑いと暴力が共存していた。

笑いはフリ×オチが必要だけど、暴力にはフリは要らない。

「フリを排除した笑いは暴力と同質のものになり得るか」という実験をしているように見える。

削ぎ落した笑いは虚無に近づく

ビートたけし自身の演技においては、世界の北野という権威から道化のおじさんへと自らを引きずり下ろしてふざけているような印象。

椅子取りゲームのくだらなさ、ナンセンスさには思わず脱帽したが、そこでもらうくだらなさのシンボルのようなトロフィーを大事に扱うあたりの、これまたくだらなさが秀逸。

「おれが体張ってとったやつ」というトロフィーが簡単に壊れてしまう。

「壊れたトロフィー」そのものがこの映画を象徴しているようだ。

ここでビートたけしと中村獅童がトロフィーを直せとヤクの売人に怒鳴りわめき散らすが、理由はいたってくだらなく、文脈を挿げ替えられた「ヤクザの怒鳴り」というシーンだけが寒々しく響き渡る。

フリを省略したくだらないギャグというマイナスの累乗をどこまで重ねていくかに挑むような姿勢を感じる。

時間ちょうせい

Spin Offというテロップはよいとして、「時間ちょうせい」は何なんだろう?黒澤明の『七人の侍』は「休憩」があったけど。

[仮説]:時間芸術である映画において時間調整の時間ほど無意味なものはない。だから入れた。

巷には本当に「おい!これ時間調整だろバカヤロー」と言えるような意味や意図のないショットやシーンの詰まった映画が蔓延っている。全て完璧に設計された北野映画には当然そんなショットやシーンは存在しない。

だからそんな映画たちを皮肉るために「時間調整」を入れてふざけたのかもしれない。

チャット画面

チャット画面を入れたのは今作が配信ということを意識しているからだろうし、スマホ画面と映画スクリーンが同義と化してしまった現代において、「映画」という枠組みをどう新たに定義するかを模索しての一手だったのだろう。

北野監督の映画製作がスクリーン上映、もしくはネット配信どちらを前提としたものに今後していくのか、あくまで今回限りの実験作なのか?

それから監督自身、TikTokなどのいわゆるショート動画に慣れ親しんだ若者世代を自分の映画の視聴者像としてどこまで念頭に置いているのか?

そのあたり監督に聞いてみたいなと思った。

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