戦後は日本研究へ。自分の運を信じた。『ドナルド・キーン自伝』を読む②
ドナルド・キーンを知っていますか
『ドナルド・キーン自伝』ドナルド・キーン/著、2011年および増補版2019年
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三島由紀夫との交流
1970年8月。事件の3ヶ月前にドナルド・キーンは三島から最後の原稿を渡されていた
ドナルド・キーンと三島由紀夫はとても親しく交流していました。
1970年夏、キーンさんは三島由紀夫から下田へ招待されました。
ぎっくり腰のために招待を辞退したいほどの腰痛があったキーンさんですが、このときは直感的なものを感じ、痛みを隠して下田へ向かいました。
家族とのバカンスを楽しむ三島のもてなしを受けながら、彼はその様子に違和感を覚えます。
翌日、三島はキーンさんへ『豊饒の海』の第四部『天人五衰』の最終原稿を「一息に」書き上げたと言い、渡しました。
三島から読みたいかと聞かれるものの、前の章を読んでいないキーンさんは辞退しました。
三島由紀夫は『豊饒の海』の『天人五衰』を1970年11月25日ではなく、夏に書き上げていた
私は『豊饒の海』が大好きで、四部作を何回も読み返していますが、1970年に完成された第四部『天人五衰』は、三島由紀夫最後の作品となりました。
1970年11月25日、三島由紀夫は『天人五衰』を完成させた朝の日付を記し、そのまま市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地へ向かいました。立てこもり、バルコニーで演説し、切腹事件を起こしました。
しかし『天人五衰』は、すでに夏に書き上げていたのです。
キーンさんは三島の死を、事件の当日ニューヨークで知りました。
その後は、夏の下田が何度も思い出されたことでしょう。
「作家として身につけたすべてを、この作品に注ぎ込んだ」!
三島由紀夫がこんなことを。
それならその後は彼が言う「死」しかないはずだ。凡人にこの結論はとても浮かびませんが、三島作品が好きならば、少しは言いたいことがわかります。
もちろん彼が起こした事件はとんでもありません。
私は三島が生きた時代を知らないため、残された記録を見たり、ひたすら作品を読むことで三島を想像しています。
キーンさんが書く三島の思い出はそれを生々しく伝えています。1970年夏の下田は、あらゆる点で11月の事件を予感させ、読んでいると背筋がぞっとしてしまう。キーン氏の目に映った三島の姿が、とても他人事に思えないのです。彼の運命を私も案じてしまいました。
1945年12月。終戦後の日本へ上陸
大学在学中に太平洋戦争が始まり、アメリカ軍の日本語通訳士として従軍、日本兵士が残した手紙や日記を解読することで、初めて日本人の生の声に触れたキーン氏。アリューシャン列島のアッツ島やキスカ島へ上陸し、沖縄では日本人捕虜からの聞き取りも行いました。
そして1945年に終戦。12月、念願の日本入国を果たします。
日本を訪れたキーンさんがまずやったのは、アメリカの日本人捕虜や中国で知り合った日本人の家族へ、あなたのご家族は異国で無事に生きてますよと伝える事でした。
西洋人のキーンさんが通りを歩くと、後ろから日本の子どもがぞろぞろついて来ます。
これを読んで私は『イザベラ・バードの日本紀行』を思い出しました。
バードの明治時代もキーンの昭和時代もこれは同じですね。
しかしイザベラ・バードは日本の様子をかなり辛辣に(むかついてるのか?と思うほど)書いていますが、日本びいきのキーンさんはとても好意的に書いています。
カルチャーショックこそあれ、バードのように日本人を見下してはいません。
バードは日本国内を巡りながら、なかなか失礼なことを書いていますよね。不衛生だとか、遅れているとか。
日本でキーン氏が友人の家族を探して向かった先は、湘南に住む「佐藤」というお宅でした。片っ端から佐藤家をあたりましたが、小さな町でも佐藤姓はたくさんいるし、彼の後ろからどんどん子どもはついてくるし、結局、目的の佐藤家を見つけることはできませんでした。
観光したのは日光東照宮だけ
日本語を学んだ教科書で「日光を見ないうちは結構と言うな」を知っていたキーンさんは、日光へ向かいました。
少年、ブラボー!かっこいいな!
大人の受け売りとはいえ、やってきたアメリカ兵に案内を申し出て、嫌味の口上まで言ってのけるとは。日本人の魂ここにありだと思います。パチパチパチ
ま、ギブミーチョコレートの時代ですもの、日本のこまっしゃくれたガキに言われて喜ぶ米兵も多かったのでしょうね。ついついチップも弾みそう。
1945年12月の日本滞在は、2週間で終わりました。
実はキーンさん、終戦のどさくさに紛れ、本来はホノルルにある自分の原隊へまっすぐ戻るべきだったのを、経由地の日本で軍の指示をごまかして寄り道していたのです。
それほどに日本を見たかったのですね。
しかし軍の手前これはまずいと、早めに切り上げて帰国したのでした。
その後、彼が再び日本に来たのは8年後でした。
研究奨学金を受け、京都大学大学院へ留学することが決まったのです。
京都に下宿、狂言の稽古に通い、文学だけでなく日本の伝統芸能と演劇の研究論文も書きました。後にそれは『碧い目の太郎冠者』という本にまとめられています。
日本でのキーンさんの挑戦と大活躍。
この先も、ぜひ読んでみてくださいね。
おわりに
私が自伝を読んで思わずファンレターを書いてしまった人、ドナルド・キーン氏。
その一番の理由はここに凝縮されています。
ヒトが言葉と文字と創造を身につけてからずっと続いている、古今東西の文章を読む楽しみ。アメリカで『源氏物語』に惹かれて日本研究の道へ進んだキーンさんが、それを再確認させてくれました。
自分でない誰かの言葉が読める。なんならネットで読める。現代は素晴らしいと思います。
みんなもぜひ読んでみてねーーー!