与謝野晶子の作品と人生を追う③
※見出画像:文化学院入口(千代田区神田駿河台2−5)
文化学院は大正10年(1921)、西村伊作が設立した男女共学の専門学校。与謝野夫妻もこの設立と運営に関わった。現在はエントランス部分が当時のままに残され、BS11局の社屋一部となっている。
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晶子、堺から家出同然に上京
新婚生活は渋谷村で
・狂ひの子 われに焔の羽かろき 百三十里のあわただしの旅
(恋に狂った私は炎の羽を軽々と羽ばたかせる。百三十里(=大阪から東京間)のあわただしい旅を)
歌集『みだれ髪』1901年
与謝野鉄幹(寛)との恋に落ち、明治34年(1901)に上京した晶子でしたが、寛は両手を広げて彼女を迎えるゆとりはありませんでした(でも呼び寄せてはいる)。
実はこのとき、すでに家を出ている寛の前妻が近所に滞在しており、彼はそちらへの気兼ねがあったのです。
寛の家には、これまでの前妻を支えていた女中が残っています。彼女は晶子へ辛くあたりました。
寛は、晶子に対してすまないという気持ちもあったのでしょう。直ちに歌集のプロデュースを始め、彼女の上京から2ヶ月後には歌集『みだれ髪』が発行されました。
この『みだれ髪』こそ、明治の文学界に非難と賞賛の嵐を巻き起こしたものです。
おかげで、歌人も非歌人も晶子に注目するようになりました。
当時の渋谷は、まだ電気も水道も引かれていませんでした。
田舎の地で肩身のせまい思いをしながら、晶子は情熱と歌の才能だけは誰にも負けなかったのです。
千駄ヶ谷村へ
明治37年(1904)。千駄ヶ谷へ移り、晶子が新人歌人としての研鑽と家庭生活に夢中になっていたころは、文芸誌『明星』の最盛期でもありました。
晶子は『明星』がリードするロマン派文学の看板歌人となり、自身の歌集も『小扇』『毒草』『恋ごろも』『舞姫』と、次々に生み出していったのです。
東京新詩社の集まりでは、しばしば「一夜百歌会」が行われました。
参加者による徹夜の歌会です。ランプの灯のもと、一人百首をめざして詠んでいきます。当然一晩中かかりました。睡魔に負けて脱落者も出る。
オールでカラオケでも麻雀でもなく、オールで歌会です。
このとき与謝野家には長男と次男がおり、双子の女子も生まれました。晶子は4児の母となったのです。
長男の光は、当時の思い出を語っています。
光さんの記憶にある千駄ヶ谷の家は、家族が暮らし歌人が集まり、父母も参加して夜通し歌を詠むという、活気あふれた場所でありました。
自然主義の台頭と『明星』の斜陽
ここで晶子の夫である与謝野寛(鉄幹)について、あらためて紹介します。
彼は『明星』を主宰した歌人です。女好きです(ロマン主義は自由恋愛という)。そして気難しくプライドが高い。
晶子の人生は彼に『明星』の歌人として見出され、大きくうねりました。
寛は歌の同志であり、最愛の恋人。彼に添い喜びも悲しみも存分に味わい、晶子の才能は飛躍しました。寛あってこその晶子と言えましょう。
その寛自身の創作はどうだったのでしょうか。
歌人・与謝野鉄幹は『明星』が時流の勢いに乗ると、次第に編集業やプロデューサー業へと傾倒していました。
そして後に彼らのロマン主義に代わって自然主義文学※が台頭し、これに『明星』が押され始めた時には、寛の創作の筆はかなり鈍ってしまっていたのです。
この時期に彼は「鉄幹」の号をやめました。
その間も妻である晶子は人気を維持し続け、彼女への執筆依頼は止むことはありませんでした。
※自然主義文学
19世紀末、フランスでゾラが提唱した。自然科学に根差した視点に基づく文学。その影響を受けた日本では、自己に忠実な内面的なもの、日常生活を芸術と表現するものとなった。島崎藤村『破戒』、田山花袋『蒲団』など。
歌集『恋ごろも』と山川登美子
晶子の第四歌集『恋ごろも』明治38年(1905)は、与謝野晶子、山川登美子、増田雅子の三歌人による合同歌集です。
彼女たちはいずれも新詩社の社友です。ということは、与謝野寛から寄せられる恋文めいた励ましもまた、全員が受けていました。
山川登美子(1879-1909)は、『明星』の初期から晶子と共に優れた歌を詠む歌人であり、登美子・晶子・寛という恋の三角関係を生きた女性です。
登美子は寛への恋を晶子に譲り、親の決めた相手と結婚したものの、まもなく夫を結核で亡くしてしまいます。
そして、ずっと諦められなかった学問と歌の道にカムバックしたのです。
山川登美子と増田雅子は、共に日本女子大学に入学しました。上京して新詩社にも挨拶に訪れ、晶子・寛夫妻との交流も再開します。
未亡人だが若々しく、生き生きとした学生生活を送る登美子と、生活にやや疲れ、お腹には二人目の子を宿した晶子。
寛が、かつての恋人である登美子を放っておくわけはありませんでした。
晶子が寛の浮気を詠んだ歌
・ゆるしたまへ 二人を恋ふと 君泣くや 聖母にあらぬ おのれのまへに
(許しておくれ、二人を恋しているとあなたは泣くのですか。聖母でもない私の前で)
・君帰らぬ この家ひと夜に寺とせよ 紅梅どもは 根こじれて放れ
(あなたは帰ってこない。こんな家は一晩で寺にしてしまえ。庭の紅梅どもは根こそぎ放ってしまえ)
※紅梅=鉄幹の意味
『舞姫』明治39年(1906)より
千駄ヶ谷での晶子は、ロマン主義を掲げる新詩社『明星』の最盛期から衰退、明治41年(1908)に第100号をもって終刊するまでを見届けました。
並行して、自身は作品と子供たちを次々に生み出していきます。
故郷の堺から自分を応援してくれた母は、この時期に亡くなりました。
それに加えて夫の女性問題が再燃する。晶子の心が安らぐことはありません。
そして、寛が慕い、歌の同志としても晶子の大親友でもあった山川登美子は、30歳で帰らぬ人となりました。原因は元夫と同じ結核でした。
寛が登美子の死を悼んだ歌
・君亡しと何の伝(つて)ごと 死にたるは恐らく今日の我にはあらぬか
・この君を弔ふことはみづからを弔ふことか 濡れて歎(なげ)かる
愛する人を失った寛の強い悲しみと嘆きが率直にあらわれた、胸を打つ歌です。
意気消沈した寛に再起を。晶子の決意
神田区駿河台東紅梅町
明治42年2月、夫妻は長男の通学に便利であるとしてこの地に転居しました。
ここでの生活は、ニコライ堂と共にありました。
・隣り住む 南蛮寺の鐘の音に 涙のおつる 春の夕暮
『佐保姫』明治42年(1909)
・戸あくれば ニコライの壁のわが閨(ねや=寝室)に 白く入りくる 朝ぼらけかな
『春泥集』明治44年(1911)
30歳を過ぎた晶子は、心身ともに疲労の極致にいました。しかし、かわいい子供たちをどうにか食べさせなければなりません。
彼女は和歌以外にも、童話や小説など、依頼される仕事は何でも引き受けました。
『明星』の終刊後、与謝野寛に実質的な仕事はありませんでした。
自宅で古典の講座を開いたり、森鴎外の主催するの観潮楼歌会の世話役などして日々を過ごしています。
寛は落ち込んでふさぎ込み、生活に背を向ける。夫婦仲は極限状態にありました。
・わが家の この寂しかるあらそひよ 君を君打つ われをわれ打つ
夫婦間の不毛な言い争いは空回りして、互いに残るのは寂しさだけです。
・男をも 灰の中より拾ひつる 釘のたぐひに思ひなすこと
この歌はいったいどんな心境なのでしょう。すべてが炎に焼かれ灰に帰したところに、愛する男が残ったということなのかしら。
『春泥集』より
寛をパリへ行かせよう
このころ、寛が唯一やる気を見せていたのが、フランス語の習得でした。
当時の文化人や芸術家にとって、洋行して海外で見聞を広めることは、ステイタスであり憧れでもありました。現代も同じですね。
晶子は夫をパリへ行かせようと決心しました。問題は渡航費用です。
そのためにさっと動き出す晶子は実にあっぱれ。原稿料の前借りでもなんでもやりました。
そして明治44年(1911)、彼女は寛をフランスへ送り出したのです。
その半年後。
今度は夫の不在が寂しくなり、自身がパリへ向かいます。
→前記事をご覧ください!
晶子の人生はボリューム満載。この先は駆け足でご紹介
文化学院の設立(1921年)に携わる
晶子は学監として着任し、古典を教えました。
終の住処は荻窪です
終わりに
与謝野晶子の作品と人生を追うと、これが100年前の、まだ日本女性に参政権がなかった時代の人とは思えない、力強さと信念が見えました。
そして晶子の作品は本当に魅力的。彼女と同じ日本語ネイティブとして生きて、私はうれしく思います。
おまけ:晶子のライフワーク『源氏物語』
晶子は、人生で『源氏物語』の翻訳を3度も行っています。
2度目の時は、完成まで残りわずかであった原稿を文化学院内に保管していたところ、関東大震災(1912年)が起こり、すべて焼失してしまいました。
3度目は昭和時代。彼女は源氏物語に何度も向き合ったのです。
・源氏をば 一人となりて後に書く 紫女年若く 我は若からず
(夫を亡くし、独り身になって源氏物語を書いた紫式部は若かったが、同じく寡婦となった私はそうでない)
『白桜集』昭和17年(1942)より
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