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『我が家の新しい読書論』5-2

網口渓太
 ドミニク・チェンさんは、主にデジタル・コミュニケーションを研究している研究者だね。研究テーマをまとめたご著書を何冊も出されているし、色
々な媒体で寄稿もされている。YouTube の動画も彼の活動の理解の補足になる。ジャンルを越えた着眼点がとにかく面白いね。「リグレト」とか「ヌカボット」とか「タイプトレース」とかユニークな人工物を作られてもいる。

EMちゃん
 ドミニクさんは、渓太くんに教えてもらってから、ES君もそうだろうけどすごくハマっていて、新しい活動を見つけるたびに共有し合ってるよ。ワタシは娘さんとのやりとりに頬が緩んじゃう。

ESくん
 坂口恭平さんも千葉雅也さんもだけど、ドミニク・チェンさんも“身体の延長線上”で知のインプットとアウトプットをできる稀有な方だよね。ボクは去年東京で開催されていたEND展を観にいって、実際に「10分遺言」という制限時間10分で大切な人に向けて紡ぐであろう最後の言葉が投稿されたタイプトレースをみたんだけど、あれは喰らったね。考えさせられた。

網口渓太
 東京から帰ってきてからしばらくその界隈の本を読み漁ってたもんね。ドミニク・チェンさんと全く同じにはなれないとしても、現在の彼に至るまでの学び方や方法は真似できるし、何か化学変化が起こるかもしれない。

 ロスの高校の担当だったドミニク・プトトン先生は当時、まだ20代後半の
若き哲学教師だった。幸運なことに、彼は古代から現代に至るまでの哲学的
概念の歴史を学ぶ楽しさを、実に軽妙な授業スタイルで教えてくれ、同時に
勉強というものの深い次元をも垣間見せてくれる優れた教師だった。彼の指
導のおかげですっかり哲学の課題にのめり込んだわたしは、親に初めて買っ
てもらったパソコンでインターネットに接続し、教科書に書いてある文献に
ついて調べながら、論文を書き上げることに夢中になった。
 哲学という言葉は philosophy の訳語だが、明治時代の西周はこれにもと
もと「希哲学」とあてていた。後ろの sophia は知識を意味し、頭のphilo は
「好む」という意であることからもわかるように、好奇心や知ることの純粋
な喜びを探求する行為が広くフィロソフィーと呼ばれてきたのだ。プトトン
先生はまさに希哲学の教師として、ただ知ることだけではなく、その背景に
ある喜びや面白さの次元を同時に教えてくれたのだった。
 哲学の課題は、ある種のゲーム性を帯びた作業だった。たとえば「芸術に
人間は何を求められるのか?」という、まるで禅の公案のように短い設問に
対して、10ページほどにわたって、先人たちの考えを引用しながら弁証法の
流れに沿って章立てを構成し、最後に結論を述べる。すでに学問の歴史に刻
み込まれた哲学者たちの概念を調べ、それらを接合して初めて自分の主観的
な考えを導入するのだ。この規則的な行為が、ちょうど良い自由度に設定さ
れたゲームのように感じられた。

 ここで挙げた芸術の問題でいえば、次の示す流れで書ける。
 まず、導入部分で設問を解題し、人間と芸術の関係性というテーマを立て
て、「芸術の効能」について考えることを宣言する[設題]。そこでカント
からマルローまでを引用しながら、宗教芸術からポップアート、そして近現
代の技術至上主義という歴史的な流れを追い、芸術が人間社会に果たした効
能の変遷を分析する[正]。
 次に、フーコーが考案した「非合理の排除」の論理を援用しながら、近代
以降に感情が経済的対象として扱われるようになったことを示す。その状況
では、「美術の社会的効能」という客観的な視点の導入が、芸術が本来扱っ
てきた主観的な価値を捨象してしまうことを指摘する[反]。
 最後に、速度と快適さの論理が支配する現代社会において、逆に芸術とい
う観念が人間にどのような変容を求めているのか、そのことこそが問われて
いる、と結語する[統合]。

 以上は、実際に自分が高校3年時の最後に書き、フランスの高校では異例
な20点(フランスでは20点満点方式)を取った論文の骨子だ。
 プトトン先生は、赤い採点メモで、論旨の曖昧な部分を指摘し、明瞭な部
分を評価してくれただけでなく、たくさんのジョークも書いてくれた。なか
でも、論文の氏名表記欄に書いたわたしの名前に赤ペンで追記し、
Dominique Chen を「Dominique [est de] Chen [ne!] (ドミニク・エデシェ
ネ)と書いてくれたことが心底嬉しかった。これはわたしの名字である
Chen (フランス語ではチェンともシェンとも読める)と[se dechainer] とい
う動詞(鎖から解き放つ、暴れまわる)をかけたダジャレで、直訳すると
「ドミニクは鎖から解き放たれた!」になる。
 なかなか原語のニュアンスを意訳するのは難しいのだが、あえて書いてみ
ると「ドミニクが大暴れしてる!」という、くだけた感じになる。
 そして、その下にはプラトンの洞窟の比喩と掛けて、「君は今、縄を解か
れた囚人のように、哲学者になろうとしているのか」というメッセージが添
えてあった。洞窟のなかで手足を縛られた囚人は、入り口にかかげられた松
明の火によって洞窟内に映る外の世界の影を実像と見誤っている。哲学者プ
ラトンが、世界の事象には実体があるが、人間に見えているのは影に過ぎな
いということを説いた寓話だ。哲学の目を鍛えれば、世界の実体に近づいて
いける。君もその道を辿るつもりはないか、という師からの誘いだった。

『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』ドミニク・チェン

ESくん
 プトトン先生~。たくさんのジョークとか、名前への赤ペンの追記とか、ユーモア×隠喩的な教え子の誘い方とか、遊び心があって、この師あってこの弟子ありって感じがするよ。

EMちゃん
 満点を取った論文のということもあるだろうけど、日常的な出来事が、事件としてこれだけ教え子の印象に残っているっていうのも、スゴイわね。プトトン先生は、きっとチャーミングな笑顔してるわよね。文面から伝わってくる。

網口渓太
 大谷翔平選手ではないけど、高校時代のドミニクさんに潜む、類まれなる才能をプトトン先生は感じ取って、本気で自分と同じ哲学の道へスカウトしたんだろうね。その後ドミニクさんは、プトトン先生が誘う哲学の道ではなく、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のデザイン/メディアアート学科へ進み、非言語の表現世界へ入っていくんだけど、ご本人も書かれている通り、「正反合」の学びはずっと自分の奥底で脈打っているみたい。
 家でも“読書は3割打ててたら上出来”と松岡さんの言葉を真似して言ってるけど、「言葉でしか記述できない事象もあるが、言葉の網からこぼれ落ちる事象もまた、世界に満ち溢れている」というドミニクさんの言葉は要チェックだよ。

 作りながら観て、模倣しながら実験する。この循環を実践するなかで、わ
たしや周囲の学生は少しずつ、各自のスタイルを萌芽させていった。
 固有の署名のように、繰り返しさまざまな場所に現れる、微かな本人のパ
ターン。たとえば、ある人はいつも微小なグラフィックの要素を細かくつな
ぎ合わせ、別のある人は特定の中間色を多めに使用する。また別の人は、画
面いっぱいに長方形を引き伸ばす、といったクセを見せる。自分の場合は、
文字を分解した小さな図形でいくつかのモチーフを作り、それらを大量に複
製して画面を構成するやり方を何度も繰り返していたことを、クラスメイト
に指摘されて気づいた。それはほとんどの場合、意図的に築き上げた様式と
してではなく、何をやっていても無意識のうちに、反復的に表れ出てしまう
ものである。
 ある瞬間に、「自分だけのパターン」がはじめて意識の上に浮かび上が
る。だから、ロールモデルを明確に持っている初学者ほど、当初は稚拙であ
っても、模倣を繰り返すなかで、対象と自らの差異をあぶり出す。そこから
固有のパターンを獲得し、世界を表象するための「言語」を構築していく。
ここには、外部から「読み取ること」と、自ら「書き出すこと」の興味深い
シンクロニシティ[共時性]が見て取れる。これは、デザインやアートなど
の視覚表現に限定されることではなく、文章の読み書きや、その他一切の表
現形式にも通じて言える。
 自然言語の領域では、母国語や外国語を習得することで、世界を独自の視
点で記述し、他者に伝える能力を獲得する。この学習行為によって、自らが
認識し、表現できる環世界の領土が押し拡げられたり変形したりする。そし
て、世界を記述するための「言語」を自ら創作することによっても同様に、
環世界は拡張されると言える。
 「領土化」のメタファーに沿えば、未開拓の土地にはじめて鍬を入れて、
種子を蒔いて作物を育てることで、その場所が自分の認識世界に組み込まれ
るというイメージが浮かぶ。ここでいう「言語」とは、言葉のように、言語
学的な意味での新しい用語や概念の体系でもあるし、視覚芸術や音楽のよう
に非言語的な媒体を用いて作られる作品や、プログラミングのように人工言
語によって作り出される相互作用の場を指すこともできる。

『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』ドミニク・チェン

 ESくんは中島義道先生の『不在の哲学』を再読したくなっただろうけど、新たに言語を作るということは、世界を認識するルールを作り出すことなんだね。本のなかに書かれていたけど、2019年時点で7111の言語が確認されているらしい。えっ、そんなにあったのって感じだけど、これだけの異なる言語=ルールたちをどう関係付けていくのか、その方法や世界観がずっと待望されているんだけど、バシッときていないのが現状なんだね。

ESくん
 あえてそう呼ばせてもらうけど、ドミニクさんたちは困難な状況ですら栄養に変えて活動されている印象があって、考えられていることも、実践されていることも、作られている創作物も、触れるたびに面白くて元気が湧いてくる。自分もできるだけ、そういう人でありたいよ。

EMちゃん
 コモンズね。日本にも公に知られていないだけで、共有地を作っている集団と活動って、たくさんあるんだろうけどね。

ESくん
 北九州の抱撲とか、坂口恭平さんのいのっちの電話とか。

網口渓太
 世の中がどうしようもなくゴミに近い情報で溢れているからね。どうでもいい情報に気を取られ過ぎて、いい活動をしている人たちのことを忘れないようにしないとね。もうちょっと、ドミニクさんの著書のタイトルにある“わかりあえなさをつなぐ”の部分を深堀りしておこうか。じゃあ、もう1冊連ねるね。

 大澤真幸が、『恋愛の不可能性について』(春秋社)という本のなかで、
固有名と恋愛とを結びつけて、面白いことを言っていた。ここから出発しよ
う。クリプキという論理学者(天才です)は、固有名は記述に還元できない
ものだと考えた。たとえば、「三代目古今亭志ん朝」という固有名は、志ん
朝さんのもつ多くの性質、「五代目古今亭志ん生の息子だ」「十代目金原亭
馬生の弟」「本名は、美濃部強次である」「出囃子は老松だ」「矢来町とい
われていた」などなどの「束」ではない。
 志ん朝師匠の本名が「美濃部強次」ではない世界、あるいは、志ん朝さん
が矢来町ではなく若松町に住んでいた別の可能世界においても、「志ん朝」
さんは「志ん朝」さんだという。一度「三代目古今亭志ん朝」という名が命
名されたら、その固有名は、すべての可能世界で通用するというのだ。固有
名の固有性は、あらゆる世界の外側にあるといってもいいだろう。このよう
な固有名のあり方が、恋愛と似ていると大澤はいう。なるほど、そうかもし
れない。

  そうであるとすれば、今や、こう言うことができるだろう。名前が、
 個体の性質の記述に還元できないのは、この私が、記述に還元できな
 いからである、と。名前は、私の記述の還元不可能性を委譲されてい
 るのである。
  さて、問題は「愛」であった。愛する他者もまた、記述に還元する
 ことができない。それは、固有名の記述への還元不可能性と同じもの
 であった。
              (『恋愛の不可能性について』十五頁)

 たしかに恋愛という現象は、その相手の性質に惹かれて、おきるものでは
ない。顔が素敵だから、性格がとてもいいから、背が高いから、相手を好き
になるわけではない。そんなことで惚れるのであれば、恋というのは、ずい
ぶんお手軽な出来事だ。もちろん、そういう要素がまったくないわけではな
ないだろう。その人を好きになるきっかけが、人柄の良さや他の何らかの要
素だということはあるかもしれない。ただ、本格的な(?)恋愛は、それほ
どわかりやすくはない。<それ>は、何とも説明のつかない面妖な事件だ。
いわば、恋愛は、背後からいきなり襲ってくる。
 どんなに自分の好みは、かくかくしかじかの異(同)性だとあらかじめ思
っていても、その通りの人を好きになる保証などどこにもない。実際そんな
人は、ほとんどいないだろう。相手の性質の束に、あるいは、束のどれかに
恋愛するわけではないからだ。自分が理想だと思っていた性格や容姿などお
構いなしに、突然、恋愛は始まる。好みも何もあったもんじゃない。理由は
皆目わからない。

  しかし、実際には、愛がまさに真正なものとして現れているときに
 は、確かに、その唯一性についての要求は貫徹されているように見え
 る。つまりわれわれは、真に愛している人物について、これで完全で
 あるというような、積極的な理由(の束)を挙げ尽くすことはできな
 い。これは、固有名を性質についての記述群に置き換えられないのと
 同じことである。
                        (同書、三二頁)

 ソシュールのいうように、語の意味は、言葉の体系のなかの、その語以外
の語との差異によって決まる。否定的な価値(他の語ではない、というこ
と)によって、語の意味は決まるのだ。だから、一つの語の意味のためは、
その背景に「ラング」といわれる言語体系全体が控えていなければならな
い。ところが、固有名詞は、そんなことはない。ほかの語とのちがいなどな
く、それだけで屹立しているといえるだろう。
 別の角度から考えてみよう。固有名詞は、いわば現実との唯一の接触面と
いえるかもしれない。言語は、本来は現実のもろもろの出来事や物を指示す
るためにできあがった。たとえば「岩」という語は、実際に存在している
「この岩」を指していたはずだ。最初は、固有名詞だった。しかし、いった
んそういう指示がなされると、その語は、言葉の群れに吸収されていき、言
語体系のなかの語として現実とはかかわらなくなる。「岩」一般を意味する
ことによって、差異の戯れのなかでのみ意味をもつ。
 言葉の発生の時点では、現実と触れ合っていたはずなのに、一度命名がな
されると、その語は、言葉だけの世界に紛れこんでしまう。だがそれに対し
て固有名詞は、いつもただ一人の人(もの)を指しつづける。もちろん、同
姓同名という現象があるので、固有名詞も曖昧なケースがあるけれども、本
来の固有名は、唯一無二の対象のみを指している。
 詩人の野村喜和夫は、こういう。

  ところが、固有名詞はどうでしょう。それも相変わらず言葉ですか
 ら、今述べた言語システム内にあることはまぎれもありませんが、し
 かし同時に、それ自体で自律的に存在しているようにも感じられない
 でしょうか。そうしてそのようなものとして、言語システムの外部に
 みずからを反転させうる力があるというようにも。なぜなら固有名詞
 は、意味の媒介というものをあまりーというかほとんどー経由するこ
 となしに直接指示対象に結びつくからです。
          (『詩のガイアをもとめて』思潮社、二三三頁)

 恋の相手だってそうだ。他の人と比べて頭がいいから、他の人より優しい
から、一緒にいて楽しいから、恋をするわけではない。とにかく、いきなり
好きになってしまう。何の前触れもなく、「外部に反転してしまう」。理由
はない。命名が恣意的(どんな名前をつけてもいい)のと同じだ。これが恋
愛だろう。
 この現象は、あらゆる可能世界の外側からやってくるのだから、とてもこ
ちらは、かなわない。問答無用の「離接的偶然」(何がおこるか、こちら側
では決して選べない)なのだ。まったく手がかりのない偶然であり、いわば
襲撃である。だからこそ恋愛の対象は、われわれの世界から超越していると
いえるだろう。もし、この世界内部での出来事であったなら、その理由も、
そこそこ推測できる。相手の性質の束のなかから、好きになった根拠を見つ
くろうこともできるだろう。
 しかし、この現象には、理由も何もない。それが非常に困るのだ。その超
越した対象(好きになった相手)から、われわれは多大な影響を受けてしま
う。恋をすると、世界は、バラ色に輝く(何という通俗的な比喩だろう)。
もちろん、逆に地獄と化すこともあるだろう。超越した対象の顔色一つしぐ
さ一つで、こちらの世界は千変万化していく。
 また、相手が超越すると同時に、こちらも絶対的な存在となる。その相手
に根本的に左右されながらも、無数の人のなかに埋もれた一個人(他の人と
の関係で役割が決まる人類の一員)ではなく、「固有名」をもった突出した
<私>となるのだ。生きている意味を初めてつかんだという気にもなる(た
ぶん、錯覚だけれども)。このように、対象の超越化とともに、自己の絶対
化がおこるのが、恋愛という奇妙な現象でもある。

『落語ー哲学』中村昇

ESくん
 なるほどね、先の言語によるネットワーク世界の可能性を表現していたドミニクさんの著書の引用とは視点を変えて、世界の外側から突然、アクシデント的に出くわす恋愛のような固有名詞について書かれた本の見方を重ねて、対比させたね。

EMちゃん
 「ユーモア」と「アイロニー」の関係と似ているわね(→10-1)。ユーモアはネットワーク的で、アイロニーはアクシデント的。アイロニーは内側にいるものにとっては、アクシデント的に外側からやってくる……、なんだかマレビトみたいね。

ESくん
 それなら、ミトコンドリアみたいでもあるよ。生命の複合体である細胞は、ミトコンドリアをとりこんで、その代謝システムで生きているわけだから。ミトコンドリアはもとは独立した生命で、とりこまれることでシステムを提供していて、安全な環境を得ているんだよね。つまりは、読み書きも同じってことを言いたいんでしょう、渓太くんは(笑)

網口渓太
 『読書論』と銘打ってるから、その通りだけど。あ、あとベルクソンの持続とヒュームの切断、一神教と多神教とも似てるね(笑) でも本当に問うてみたかったのは、「ホフスタッターの法則」のように、今の僕らのように、意味が意味を生んで、関係が関係をつけたり、解消したりまた結んだり、頭がこんがらがって思考停止しているような状況にあるとき、どういう方法が使えそうかということを考えてみたいのね。行き止まりにある政治問題、息詰まる人間関係、相手とうまく噛み合わない恋愛、いつまでも自分のある問題と折り合いがついていない人もいるだろうね。

ESくん
 みんなで図書館に行って、ヴィトゲンシュタインの本を片っ端から借りてみるってのは? 要約すると、要は「語り得るもの」と「語り得ないもの」の話しでしょう。

EMちゃん
 今日の話しの流れだとじゃあ、みうらじゅんさんの本も借りましょうよ。この前、古館伊知郎さんのYouTubeにみうらさんが出ててさ、感動したんだけど、国宝とか重要文化財って結局人が決めてるんじゃないですかと、仏側が決めてるんだったらまだしも、人が決めてんのに今年国宝何体出すとか、『はてなの茶碗』の落語じゃないけど、国宝の札が入れ替わっていてもわからないじゃないかと。だったら一回それを取っ払って、一番自分がグッとくるところを「ボク宝」と呼び始めてみるのはどうかって、これ仏像愛が溢れているからこその、想像力じゃない? まさしく恋の力よ。

網口渓太
 お見事! まさに「マイブーム」じゃん。みうらさんは「一人電通」も最高だよね。ヴィトゲンシュタインはアイロニー的なキーマンで、みうらじゅんさんはユーモア的なキーマンだ。よーし、じゃあ図書館に行こう。今日はこのふたりの著書を読み漁るよー。

ESくん
好奇心と知ることの純粋な喜びがある……、ふたりとも希哲学者ですな。

EMちゃん
 あとねあとね、「老いるショック」ってのいうも、最高なの(笑)

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