見出し画像

『我が家の新しい読書論』4-3

網口渓太
 
では(3-3)の続きです。

■クセから始まる
 私は朝起きたら、「やりたいことはなんですか?」と、“今日の私“に今日の気分(好み)を尋ねます。いついつまでにこれをやらなければと命令口調になるよりも、これをやってみたらどうなるんだろうと自分と対話をする方が軽やかです。ハイパー・スコア・リーディングも同じです。目的によってスタートを切るのではなく、過程を共有することによって読み書きを始めます。つまり、問題を相手側にゆだねるのです。突然始まるのですね。そうしていると、何かがその人(著者たち)とのあいだでなっていきます。そのなってしまったものに沿って、自分が楽しんでいく。また、このなってしまったものを「クセ」と尊びます。
 クセというのは、その人のコンプレックスや劣等感であるのかもしれませんが、使い方によってはあらゆる相互作用を起こすエネルギーとなります。相手のクセを面白がり、その人が持っているクセ以上に普遍性を持たせてみること。そして、相互のクセを解放していく。これがハイパー・スコア・リーディング的な世界(本)との関わり方であり、お気に入りの姿勢(スタイル)です。たとえば、みうらじゅんさんといとうせいこうさんの『見仏記』は、みうらさんの子供時代のクセである「仏像スクラップ」の偏愛がきっかけですが、いとうさんが、そのクセを楽しんでいった結果生まれた企画です。
 では、読書のスタイルをさらに深掘り。思考の様式の歴史を少しだけ覗いてみましょう。斎藤幸平さん等の影響もあり最近一般読者層にも注目されているのが近代哲学の祖ヘーゲルです。ドイツ人の彼は客観的世界と主観的世界のあいだで生じる解釈の違いを、“正反合”のプロセスを使って更新する運動のことを「弁証法運動」と名付けました。弁証法ってなんでしょうか?たとえば、理想のAが他者Bと出会った場合、そもそも他者Bは自分ではな
いわけですから、Aにとって非Aになります。そしてAは違和感(解釈の違い)に気が付きます。そうしますとAの周囲では、元々あったAを超えるもっと理想のC(非B)を生み出そうという動きが生じます。このように、A→B(非A)→C(非B)→etc……、と経験の連鎖を繰り返す運動のことを弁証法運動といいます。AとBが出会うことで生じる差異の辻褄を合わせていく。これが弁証法的な世界の見方です。私たちは自然とこの、弁証法的
な論理を使っています。
 お気付きかもしれませんが弁証法運動は近代的なスタイルです。物事を二つにハッキリと分けて、分かりやすくして、どんどん変化しながら、原形を忘れるほど新しくなっていく。
近代世界は、真と偽を分け、正義と悪を分け、美と汚れを分ける。AとBのあいだから生じる違和感を相違と捉え、違いを明らかにし、デコボコをならそうとします。物事の間違いを逐一訂正しながら、ロジカルに分かりやすくして、世界をシンプルに変化させているのです。
物事を分かりやすく分けて分類して、どんどん新しく変化していくという弁証法運動、どこが駄目なの?と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも冒頭の“この世界”と“本の世界”でもお話させていただいたように、ノイズの除去を行き過ぎる余り、世界から遊びの要素が失われてしまうのは問題です。私のなかの自然が人類によって破壊されているわけですから。
ハイパー・スコア・リーディングのアイデアはこういった近代的な仕組みから逃れ、人間にとっての自然を取り戻したいがために生まれました。サード・サマー・オブ・ラブなんです。
違和感やクセを相互作用を呼び起こす秘めた力だと捉え、アナロジーとメタファーに遊び、似ていることや近さを発見し、新たな世界像を何かの創作物に託していく。何かと何かを比べて勝ち負けを競い合うのではなく、何かと何かを合わせて真似ながら、流れを生み出していきますから、たとえ作品がヘタであれ、知恵が遅れていたってかまいません。仏像の専門家ではない、みうらさんといとうさんの『見仏記』のように。専門家じゃないし、まだ知識が足らないから、でも興味が向いたんだったら、自分から足止めをしてしまうより、世界を旅してみた方が楽しいでしょう。本の世界だったらいまから始められます。むしろ不足や分からないことを活かして、相手(著者)と自分(読者)の解釈の違いを面白がってみること。「分からない」にも二通りあります。一つ目は自分の知識が不足している場合。このときは、著者の教えを丸飲みしてしまいましょう。引用ノートを作るのもいいですね。もう一つは相手がそもそもデタラメを言っている場合。デタラメだとあなたが判断したんだったら、その箇所は読み飛ばしていい。本を読むのを止めてもいいでしょう。「丸飲みをするけど鵜呑みはしない」、ちょっとピリッとわさびが効いている感じがハイパー・スコア・リーディングのスタイルです。このように読書のスタイル含みで読書のリズムを作っていきます。
 余談ですが、日本の芸能ではクセを「曲」と書き、そういうなりゆき道なりの進み方を「節」と読みます。似ている事や近さから事態を始めていくのは日本人らしい方法でもあるようです。

ESくん
 「癖」は「型」になりえるか。弁証法運動の再認識と、相似律という未知
の思考スタイルを知ってもらう仕立てだね。

EMちゃん
 弁証法だったら、『何か分かりずらいチャンネル』の三島由紀夫の『金閣寺』を題材にした解説がとても分かりやすかったわ。主人公が現実の金閣寺
(B)を見たときに、元々想像していた金閣寺(A)と違って困惑をするん
だけど、さらに理想の金閣寺(C)を作り出して、その違和感を乗り越える
って話し。

網口渓太
 そう経験の連鎖。今までの自分を捨てて新しい私に出会うという感じだね。ちなみに、ルソーとかディオゲネスの“自然に帰れ”的な主張が反弁証法運動ぽいかな。一方で相似律はもともと似ていることが出発点になる。ヘーゲルもルソーもディオゲネスも入る思考法で、雑な案内だけど、『遊 1001』の相似律の特集号とか『NARASIA』の本の編集の仕方とかが参考になるよ。

ESくん
 分かりやすいよ。一つ思ったのは、日本の芸能の下りは挟み込むんなら、
もうちょっと厚くした方が親切じゃないかな? ちょっと唐突な感じがする
というか。それか削ってしまうか。

網口渓太
 でもESくん好きでしょう、この下り。じゃあここはESくんに大いに調
べてもらって、弁証法でも相似律でもいいけど、厚みを持たせてもらおうか
な。

ESくん
 なるほど、やられた。Ok.やりますよ。サビを作りますよ。

網口渓太
 弁証法は今までの自分を捨ててどんどんスーパーになっていく。でもそう
簡単な話しではなくて、自分が誤っていることを認められないとか、変わる
ことが怖いっていう気持ちが起こると、約束された安全な範囲で満足しよう
としたくなる。そうすると、動物的な欲求に甘んじて再動物化してしまった
りする。どちらにせよ、固いよね。ハイパーな相似律をお題に探ってみて。

EMちゃん
 最近流行りの「論破」を題材にするとか。

ESくん
 面白いかも。自分が正しい状況を作るために、ひたすらああ言えばこう言
うを言って論旨をズラして、反論することを自体を目的としている輩ね。

EMちゃん
 そうすると、やがては合意に至る弁証法運動の大切さも感じられるわね。

網口渓太
 ボクは木澤佐登志さんの本とか記事を愛読してるから、再動物化も好き。
急かず急いていこう。じゃあ次へいこう。

■0・5秒の世界
 一度自覚するとハッとしますが、弁証法運動のような認識のパターンを私たちは自然と使っています。なんせ弁証法運動にかかる時間は約0・5秒です。AとBのあいだを瞬間的に認知判断し、出来事を実現させています。つまり思考のプロセスを“型”と呼べるまでにするには、1秒間の半分の時間で情報量を処理して、インからアウトまで情報を運べる必要があるわけです。ここまでもこの世界と本の世界と分けて呼んでみたり、みうらさんといとうさんの『見仏記』を例に出しているのもひとつの型、スタイルです。では、たとえば本がソフトで本棚がハードだとしたら、みなさんはどうやって遊んでみたいでしょうか? この0・5秒の制約のなかで、どうやったら、より自由に遊べそうでしょうか? 網家では手を動かしたり、足を運んだり、身体の延長線上で、多読することを大事にしています。ただそこにいて大量の情報を収集管理するのではなくてです。
 “考える”ということは、他者に依存する行為です。発想や発言や行動もそうですが、いまの自分と世界のあいだで成り立っている関係は、かつてあった出来事の写し鏡になっているはずです。記憶のソフトと記憶の倉庫であるハードは影響を与え合う関係なわけです。つまり、われわれがその場で何かを考える、その時に物事を選択したり判断したりするというのは、ほとんどが無意識の領域に委ねられていて、直感的なわけです。たくさんの私というのは、普段私にすら隠されてた私も含まれます。私というのは他者や他所によって構成されている。私が私と石工をズシンと重たくするのではなくて、もっと羽を伸ばして軽やかに生きれば、この事実を逆手にとればいいんです。悩みとか迷いも、まずは隠れた私にとっての故郷であるあちら側の世界を旅してから、こちら側の世界に帰ってきてみてはいかがでしょう。そもそもそこで問題を抱えているのに、そこに留まっていたら問題にエサを与え続けているようなものです。悩みや迷いというエサを問題は好みますが、私たちがいきいきと生きる栄養にはなりません。
 はじめに言っておきますが、読書はAとBの出会いと別れの連続ですので、ストレスを避けるわけではありません。むしろかつて世界のあちこちで起こった火花に出くわしていく。どんどん食べて、どんどん出す。そうやって世界と私のあいだを鍛えていくわけです。網家では、このあいだを視覚化するため『100冊の愛読書』という組み替え自由な本棚に置き換えて遊んでいます。
どうやったらもっと0・5秒の制約のなかで自由に遊べるのか、日々試行錯誤しているわけです。ちなみに服を選ぶときは、自分の体型を基準にしつつも、値段や流行や好みに加えて、こうなりたい誰かを参考にすると思います。そして直感的に好みを頼りに手にとって身体に合わせてみたり試着をして購入する。本も同じです。自分の思考の型を基準にしつつ、こうなりたい誰かを参考にして、直感的に好みを頼りに手にとって立ち読みして、やっぱり棚に戻したりしながら購入する(笑) 本屋や古本屋の棚は、店主や書店員のクセが出ていますから、目的の本を探すだけでなく、棚を読んでみるのも新しい発見があって面白いです。
 書店のように、愛読書が集まってくると、棚が充実してきます。そうしたら、服を着るのと同じように、出先のTPOに合わせて、出先の雰囲気にふさわしそうな本を持って出かけられます。網家はけっこう本をポケットかカバンにいれて、町中で本を読むことを好みます。集めた本によって、出先が変わりますし、出かけた先での出会いによって読む本が変わることもあります。他者に依存することで、自由になっていくのが、ハイパーですね。ちなみに精神分析医のジャック・ラカンは「無意識は言語のようにできている」といいました。世界と私と本を交差させながら、その全部を編集しながら、歴史(世界史・日本史・自分史)を刻んでいく。これが、ハイパー・スコア・リーディングです。

ESくん
 プレゼンの前半は亀の時間、後半に兎の時間の話しも組み込むのね。ハイパーな構成だね。

EMちゃん
 でもここでも亀さんの話しをしてるわ。100冊の愛読書とクローゼットの下りは、読書習慣を喚起する為だもん。

網口渓太
 そう読書が“第三の居場所”になるといいなという思いを込めてね。本は時
に神や仏のように祈りの対象になるし、叱ってくれる親や兄弟のようでもあ
る。可愛がっているペットのようでもあるし、サプリのように栄養を補給す
る読み方も面白いね。過去や未来の不安にさいなまれていたり、暇を持て余
している時間があったら、外に目を向けて、世界を面白がっていたいよね。

ESくん
 書を持って町へ出よね。

EMちゃん
 町で買って書へ出でよ。

網口渓太
 こうなったら楽しいだろうね。よしでは終盤です。

■代表の読書の歴史
 長くなってきたのでちょっとアイスブレイクをしましょう。私が本を読み始めたのも自身のクセというか、トラウマがきっかけです。運動や友達と遊ぶこと
が好きで活発な子供だったのですが、極度のあがり症だったので、人前で発表す
ることが苦手でした。頭が真っ白になって、頭のなかに浮かんでいた色々なことを伝えられない、そもそも順序よく話しができない自分へのもどかしさが、幼い頃からあったんです。
 大学に入学するまでずっとテニスに夢中な少年でしたが、20歳の頃一念発
起して、本を買い始めました。一番初めに人生を変えられた一冊は、『インナー・ゲーム』というテニスの教本だったのですが、この本の影響もあり「意識と無意識」の関係に興味を持ちました。“自分のなかにある他者”というテーマがとっても面白かったんですね。違う私になれるかもしれない可能性に希望を抱いたのでしょう。今も地続きです。
 論理的に長い話しをする事が苦手なクセと「意識と無意識」の関係を知り
たいという好奇心から始まった読書は、10年間紆余曲折します。1000冊以上目を通して、現在手元に残している本は200冊ほどです。アートやロック、精神分析学やポストモダン、ファッション、文化人類学、量子力学、SF、新感覚派の文学などと、好みのジャンルは広がっています。でも、常に根底にあるのは、はじまりのクセと好きなんですよね。
 始めた頃は、うまく話しを組み立てられるようになれたらいいなと考えていましたが、色々な分野の自分と感性が似ている人たちの書きものを読んでいると、スポーツや資格社会のように上達を待ってから何かを始めるのではなく、このまま事を始めてしまっていいんだと、幾分か軽やかになってきた気がします。
 全く思いもしなかったことですが、今ではこうして今みなさんの目の前でお話させて頂いているんですね。人って変わりますね、驚きです。では、自分が語りが長くなりましたので、本題に戻りましょう。

網口渓太
 所説あります。

ESくん
 アイスブレイク中に自分語りを挟み込むのね。謙虚すぎるって(笑)

EMちゃん
 病気で寝たきりになったときにできる娯楽が読書だったからっていう説
も聞いたことあるわよ。私たちふたりのどちらかが代わりに語るなら、主
語を変えておかないとだめね。

網口渓太
 そのつもり。自分に興味を持って欲しいわけではないからむしろ逆だし。
でもボクも「読書モデル」のひとりとして出とく必要性を感じたから挟んだ。そういうことよ。

EMちゃん
 なんだかさぁ、『世界と私の読書史』とか、お題を作ってみたら面白そう。

網口渓太
 いいと思う。メモっとこ。でね、最後はまた外の世界の話しに戻るんだ
よね。もうちょっとお付き合いよろしく。

■近代的な無限性の登場
 最後にお話しておきたいのは近代的な有限性についてです。結論から申し
ますと、カントが定めたように、人間が考えられるのは「考えていること」
だけ、今見えている世界が自分にだけ見えているものなら、すべては幻でこ
の世には自分一人しか存在しないんじゃないのか? このような問いこそ、
ザ・近代です。
 世界が本格的に近代化していったのは十八世紀末です。それ以前は、世界
の事物がどうであるのかを、じかに語ることができる雰囲気がありました。
ミシェル・フーコーは十七、十八世紀を「古典主義時代」と名付け、思考に
対する事物の現れ、すなわち表象と、事物それ自体とを区別することなく、
事物を思考によってじかに分類整理できる、と考えられていた時代でした。
ちなみに古典主義時代より以前はルネサンス時代です。
 古典主義時代には、表象と事物は一致しているのかズレているのかという
問題意識はなかったのですが、近代化の進展につれて、表象の背後には、事
物がそのようにできている深い原因がある、表象を見るだけではわからない
原因を解明しよう、という知の運動が始まりました。
 つまりは、近代にはかつてなかった無限性、終わりのない任務が生じてい
るのですね。たとえば博物学で、神の秩序たる世界を記述することは際限な
い仕事でしたが、古典主義時代の終わらなさは、たんに量が多いだけでし
た。しかし近代以降は、探求するほどにかえって謎が深まるようになったの
です、これが新たな無限性です。思考(表象)と現実(事物)を隔てる奈落
を埋めようとしても埋められないというのが、近代的な無限性です。
 世界そのもの、カントが言う物自体には到達できない。この意味で、人間
という存在が「有限」なものとして発見されます。かつては、人間が有限だ
というのは、神に対して矮小なものというくらいの意味でしたが、近代にお
いては有限性の意味がより深まります。思考によって世界に一致しようと試
みるが、結局はできない、これが近代的な有限性です。
 思考において思考を逃れるものの存在を知らされ、人間は自らの内に深い
闇を抱え込むようになりました。フロイトが無意識と呼んだものです。ただ
必ずしもネガティブな意味ではなく、このような未知の世界に魅惑され、真
理を取り戻さんばかりに、何度もそれを取り逃がしながら自らの有限性を示
し、その有限性ゆえにその真理に向かって歩み続ける近代的な人間が登場します。

ESくん
 内容はよく分かるけど、これは千葉雅也さんの『現代思想入門』の文体のまま過ぎるよ。

網口渓太
 そう内容は次の章との繋がりを意識していて、

■勤勉で実り豊かな遊歩者
 社会が充分なほど成熟し、我々市民はかつて封建社会の貴族の特権であっ
た“暇”を遊べるようになりました。ヴァルター・ベンヤミンは自身の著書『パサージュ論』でこの資本主義の後期段階のことを「近代」と呼びました。そして、この時代にあって初めて、遊歩者、賭博者、研究者といった「無為に過ごす者」が生まれ、新しい形の芸術活動が可能になると説きました。「無為によって得るものが、労働によって得るものよりも価値がある」という考え方が意味を持ち始めたのですね。
 探求する者にとっては「決して探求の終わりはない」。賭博者にとっては
「決してもう十分ということはない」。遊歩者にとっては「必ずまだまだ見
るものがある」。ベンヤミンは探求者、賭博者、遊歩者に共通している自発
性は猟師に似ているのではないか、狩猟のような原始的労働に内在する自発
性をうちに含んでいるのではないかと考えました。テクストとは、読者が猟
師となる森であると。
 労働は必要(目的)が満たされた時点で終わりますが、冒険(遊び)はこ
れで終わりということがありません。「無為」はこの完結不可能性がゆえ
に、「労働」以上に、激しく人間を駆り立てます。無為とは待つことです。
読書は0・5秒の速い時間と怠惰になるほど長い時間の両方を行き来する深い
遊び。では我々は何を待っているのでしょうか、それは集団の夢からの目覚めの瞬間です。

ESくん
 なるほど、繋がりを理解した。文体はこれから家宛てに変えていくのね。

EMちゃん
 冒頭を“煩悩と読書”で始めて、最後は“無為と読書”で締める。なるほどね
ぇ、本当よくまとめたわね。

網口渓太
 我もまた「無為に過ごす者」なんで、終わりはないけど、このプレゼンがひとつの有限性って感じ。一本になってるかな。

EMちゃん
 いや面白いよ。自分たちが想定している読者層は、元々読書を習慣としている方たちと、読書を習慣としたがっているであろう方たちだけど、響くといいわね。

ESくん
 網家のファーストアルバムみたいなもんだから結構重要なテクストだよね。EMちゃんも言ってくれた通り、読書“習慣”という部分がキーワードだけど、読書を習慣にしたいと思ってもらえるような要素は揃っていると思う。後は、仲間をひとりひとり増やしていきたいね。

網口渓太
 みんながそれぞれのアルス・コンビナトリアを作れるようになる為にね。OK.では、今日はここまでにしておこう。ありがとう。じゃあ、中津にご飯食べにいこう。まずはコズミックラテね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集