#10 地獄の夏休み~塾の合宿~
夏講習会開始、地獄の日本史
4月に受けた模試の3教科偏差値60を一度も超えることなく、
夏休みを迎えてしまいました。
※日本史だけはちょいちょい60を超えてました
「この夏で一気に偏差値伸ばすしかない・・・!
「ここで頑張れなかったら人生終了だ・・・」
「マジで死ぬ気でやるしかない・・・!」
と焦りと熱意に満ちていました。
夏休み初日から毎日塾で9時間の授業がありました。
1科目3時間です。
朝から晩までずーっと塾に籠りきりです。
帰宅後は、暗記+宿題で
授業に加えて4~5時間は勉強していました。
まずはそれが2週間続きました。
中でも一番きついのがダントツで日本史。
前回も書きましたが、
尋常ではない量の板書、
それを高速でノートに写す。
しかも説明を聞きながら、
さらに問題を出されて当てられる。
外したら「おまえはダメなやつ」扱い。
超絶スパルタでした。
※たぶん先生の名前書いたら共感してくれる後輩が多数いそうです
※当時のノートが実家にあるので、回収できたらノートアップします
自分は寵愛を受けていたのでキツい感じで当たられはしなかったのですが、
逆にミスれない緊張感がありました。
しかもそれを毎日3時間。
それだけで疲弊します・・・。
しかしながら、一番きついのは帰宅後。
その3時間分の板書、
A4サイズ9ページ分くらいを毎日すべて一語一句覚えて暗唱できるようにならないといけないのです。
これがもう頭おかしくなって吐きそうになりながら
毎日家でブツブツブツブツ何時間も唱えながら
血反吐を吐く思いで覚えきってました。
実際生まれて初めて勉強し過ぎで吐き気を催しました。
ただ、「頑張ってる!これで成績が伸びる!」と信じてやっていた分、
充実感はありました。
今思えば、ここまですることなく
英語などに時間も労力も割くべきでした。
「日本史だけで受からせてやる」という言葉を信じて、
日本史教に入信したつもりでやってました。
英語
英語は単語も文法もだいぶ覚えてきました。
特に、単語テストは1年生のときから繰り返しているので
かなりのアドバンテージがありました。
ただ、毎日単語テストがあったので
日本史のノート+単語暗記も含めると
かなりの負担でした。
暗記自体はかなり得意だったのですが、
このときばかりは暗記が嫌いになりました・・・。
その反動で、長文を解くのがめちゃくちゃ楽しかったことを覚えています。
ただ、長文はなかなか伸びずかなり苦戦していました。
※浪人時には偏差値70以上で一度満点の200点も取った経験から、
毎日の音読と1日2~3題は解くべきだったと反省しています
現代文と古文・漢文
どれもかなり苦戦しました。
現代文は、
先に問題文を読んで~、
『つまり』に丸をして、
その下に線を引く~
とか
『たとえば』のあとは読まないとか
章ごとにタイトルを付けて~とか
機械的な作業を身に着けていきましたが、
なかなか偏差値は安定しませんでした。
※60前後いったりきたり、稀に50切ったり・・・
古文は、文法は1年からやってたので大分できていたつもりですが、
どれだけやっても文章で何言ってるのか全文訳できるには程遠かったです。
ただ、見たことある内容がテストで出てきたときは高得点は取れてました。
漢文は、もうほとんど勉強しなかった気がします。
多少勉強はしましたが、配点も低かったのでそれほど力を入れず。
塾の授業のほかには、他の教科の息抜きに問題集をやる程度でした。
早稲アカ名物 志賀高原合宿
ほぼ全員参加の合宿がありました。
たしか2泊3日くらいだった気がします。
1日10時間以上の授業と、就寝前まで勉強、
やる気がある人は、朝授業前にも教室で自習してました。
(自分ももちろん早起きして朝勉をしてました)
他の塾ではあり得ないような、超熱血指導で
「何が何でも志望校に受かるぞぉぉぉ!!!」といった意気込みで
それに感化された生徒たちもかなり力を入れて頑張ってました。
高校3年の他校の塾生も参加していたのでかなりの人数でした。
池袋校にはよく土日の講習で行っていたので、見知った顔もチラホラいました。
泊まる部屋も他校の生徒と一緒で、
自分と親友、他校の2人でした。
同じ日本史勢だったこともあり、かなり仲良くなりました。
ちなみに1人は帰国子女で
模試で英語200点を取ったことがある猛者でした。
この2人とはたまに別校舎で受ける日本史の授業でよく会うようにもなりました。
2人とも自分と同じ早稲田も受ける仲間でした。
当時を振り返ると、
授業が長すぎてかなりキツそうでしたが、
周りに何人も仲が良い友達がいたこと、
何が何でも早稲田に受かりたかったこと、
合格への異常な執着からストレスなんてないようなものでした。
「受かるためなら何でもする!!」
「どれだけキツくても全てこなす!!」
といった気概で、
本当に人生で一番本気な時期でした。
先生へのもはや宗教的とも言える盲信もありましたが、
その宗教的、体育会的な指導がなかったら
あそこまで頑張らなかったと思います。
※今の令和の時代には錯誤した姿勢でしょうが、
それ故に強くなれた部分も大きかったです
2日目の夜には、キャンプファイヤーもありました。
気になっていた娘と話してみたかったのですが、
そんなチャンスもなく男友達同士で駄弁って終わりました。
最終日になり、合宿中の成果を試すテストがありました。
特に良い成績が叩き出せたわけでもなく、
自分より遥かに頭のいい生徒たちがランキング上位を席巻していました。
同じ部屋の帰国子女の友達は英語でトップ層に入っており、
なぜかもう一人の同部屋の友達の方が英語の成績が上だったことは覚えています。
※最終的に、
帰国子女の友達は、慶應に落ちて早稲田の商学部に合格し、
もう一人の友達は、早稲田の社学か一文(現文学部)に合格してました
自分としては全力を尽くした合宿でしたが、
まだ夏休みが半分残っていたので
そこで成績を伸ばし、
9月の模試で過去最高偏差値を叩き出すつもりで
さらに勉強するつもりでした。
お盆休み
合宿後、授業が1週間程度途切れる時期がありました。
毎日9時間以上の授業と日本史のノートの暗唱がないだけで相当楽になりました。
合宿の疲れも相当ありましたが、
目標は『早稲田合格』だったので、
授業がない分の負荷は自分で問題集を追加するなどして担保していました。
早稲アカでは、『夏休み勉強マラソン』というシートが配られ、
夏休み中に1ヶ月400時間勉強しようみたいな課題も出されていました。
自分は授業の時間を追加してなんとか達成したのは覚えています。
※授業時間抜くと無理だったのでそこは許容されてました
勉強内容としては、暗記系は抑えつつ、
英語の長文や現代文を解くアウトプット系に注力していました。
ただ1週間はあまりにも短く、あっという間に終わってしまいました。
最後の追い込み
夏休み序盤と同じ、
毎日9時間授業+日本史の暗唱+宿題の地獄のフルコースでした。
「人生で一番頑張るのはこの1年しかないから、死ぬ気でやるしかない!」
「ここで頑張れないダサい男にはなりたくない!」
「来年は早稲田で天国のような大学生活を送るために頑張るんだ!!」
と自分で自分を鼓舞しながら本当に必死で頑張りました。
ただ、塾ではあまりにもキツすぎて泣いてる女の子もチラホラ見かけました。
ちなみに、日本史の授業の人数はどんどん減っていきました。
※2学期には15人くらいしかいなかった気がします
お腹の不調
ここまで書いていませんでしたが、
当時から授業中や模試中によくお腹が鳴ってしまうことに死ぬほど悩んでました。
毎日何度も下痢をして、5~6回トイレに行ってから家を出てました。
※社会人になってからも変わらずで、今も過敏性腸症候群です
これがあまりにもストレスで、
模試中にお腹がなりそうになったときは全然集中できず、
本当にそこだけ成績がガタ落ちしていました。
その対策として、
ガスストッパを飲んだり、
授業ごと、試験前の各科目ごとに何かを食べるようにしていました。
(コンビニで売ってたこんにゃくマンナンのお菓子とか)
毎日塾の近くの松屋で牛丼を食べていて、
模試の日の朝も食べてから会場に向かっていました。
※当時は並250円くらいでした
元々かなり少食なのもあって、
いつも模試の日の朝は吐きそうになったまま電車に乗ったり、
味に飽きていたこともあり、
2学期あたりから牛丼を食べると気持ち悪くなるようになりました。
※ちなみに、高校卒業してから10年以上松屋だけは行きませんでした。
夏休みの終わり
こんな感じで塾&勉強一色の夏休みが終わりました。
友達と遊んだり、
テレビを観たり、
ゲームをしたり
などの娯楽は一切やりませんでした。
塾の授業の合間や授業後の自習時間に友達と話す程度でした。
勉強以外をしている余裕が一切なかったので、
当然と言えば当然でした。
この時点では成績も4月の3教科60すら超えられていなかったので。
もうこれだけ限界まで頑張ったんだから、
次の模試はかなり偏差値が上がるだろうという自信はありました。
特に学校の友だちは、
夏休みに初めて河合塾や代ゼミに通い始めたというスロースターターばかりで、
学校の同級生には負ける気はしていませんでした。
そんな夏休みも終わり、2学期へ突入しました。
つづく