自分の実力を思い知る瞬間
今日も今日とて、柔術のトレーニングに励む。
昨年、思い切って飛び込んだブラジリアン柔術の世界。いま、始めてちょうど1年が経つ。
もう部活かっていうくらい道場に通っている。月曜から金曜まで毎日である。白い道着に白帯を締めて、髪をきゅっと結んで、指先に巻くテープと水筒だけを持っていく。
あるとき、仲の良いご近所さんに柔術の話をしたら、こんなことを言われた。
「いまからそんなに頑張ってどうすんの?オリンピックでも目指すの?」
彼女は、いつも思ったことをそのまま口にして、がははと笑う豪快な人だ。わたしは、すぐに彼女の言葉を打ち消すように言った。
「ちがう、ちがう。これでなにかを目指してるとかじゃなくてさ、ただこんなに楽しいことを見つけたことが嬉しくって」
そういうことだ。
今日は、技の練習を30分ほどした後、5分刻みでスパーリングを繰り返した。
いつも一緒にトレーニングする女性が来ていたので、ほとんどの時間は彼女と組み合った。途中で、パートナーを変えるタイミングがあり、今度は紫帯のディーン(仮)と組み合うことになった。
彼はわたしと同年代だけど、柔術を始めたのは大学時代らしい。途中、ブランクはあったらしいが、いまも足しげく道場へ通うツワモノの一人だ。
でも、技に熟練したディーンは、わたしと組み合うとき、力の差を見せつけるようにボコボコにしてきたりはせず、手を抜きすぎない程度にわたしのレベルに合わせてくれる。
ディーンから学ぶことは多い。わたしの攻撃をどうかわすのか、あるいはどのようなカウンターをとってどんな技を繰り出してくるのか。いつも注意して見ている。
それに、一回ごとに、わたしの良かったところや改善すべきところをフィードバックしてくれる。これも、ものすごく勉強になる。
だから、わたしはディーンと対峙するとき、絶対に手を抜かない。誰とやるときも手は抜いていないけど、ディーンに対しては、一段ぴりっと引き締めて臨んでいる。
今日も気合い十分で向かっていった。まずはコントロール、それから攻撃。いつも関節か絞め技を狙う。たいていはかわされるんだけど、だからといって攻撃の手をゆるめてはいけない。いつも狙っておかないと、一瞬のチャンスを逃す。
果敢に攻めるのはわたしのいいところだと思うけれど、失敗するとツケがくる。ディーンはわたしの攻撃をかわして、横から抑え込む体勢になった。それを防ごうと手で押し返すと、その手を膝で床に押さえつけられた。
すると、なにがどうなってそうなったのかわからないが、わたしの親指が、通常とは反対の方向に曲がったまま膝で押しつけられ、見たことのないほど深いカーブを描いてしなっているのが目の前に見えた。
一瞬遅れて、声が出た。
「イタイタイタイタイタイタイタイタイっ!!!!」
なにごとかと驚いたディーンが横に退いた。コーチも駆け寄ってきた。わたしは折れたと思った。
二人に見守られながら、おそるおそる親指を動かしてみると、普通に動いた。動かすと痛んだけれど、折れてはいなかった。
格闘技をしている以上、こういうことはある。ディーンは謝ってくれたけれど、彼はなにも悪くない。
しかし、そんなことより。
わたしはアメリカに来て8年になる。いまでは、英語もあまり困らないようになってきた。毎朝ニューヨークタイムズのポッドキャストを聞き、近所の人たちと世間話に花を咲かせ、親戚の集まりにも家族の一員として馴染んでいる。
でも、こういうとっさの瞬間には、英語なんてカケラも出てこないんだな。
イタイタイタイタイタイタイタイ、しか言えなかったよ。
(おしまい)
読んでくださってありがとうざいます。
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