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【海外育児】神様を信じてる?と聞かれたら、どう答えるか

ある週末の午後。

インターホンが鳴ったので、誰かと思って出てみると、近所の子どもだった。うちの子たちがわーっと外に出て、一緒に自転車に乗ったり、走り回ったりして遊び始めた。

そうしていると、5歳のマイケル(仮名)が、彼の母親のところまでトコトコと近寄ってきて、こんなことを言った。

ママ、〇〇(うちの娘)は神様を信じてないんだって

信じられない、という表情をしている。どうしてだろうね、変だね、というニュアンスで母に伝えている。

それを少し離れたところで聞いている娘もまた、不思議そうな顔をしている。それがどうしたんだとでも言いたそうだ。

マイケルのママは、一瞬はっとしたようだったけれど、落ち着いた口調でマイケルに語りかけた。

人は、信じるものが違うのよ。違っていいのよ

この抽象度の高い話を、マイケルがどこまで理解したかはわからない。実際、ぜんぜん腑に落ちていなさそうだったけれど、なにか別のことに気を取られて、走っていってしまった。

マイケルのおうちは、毎週末、欠かさず教会に通っている。マイケルは、物心ついたときから、そういうものとして自然に神様の存在を信じているらしい。

一方、我が家には、なになに教を信仰しています、といえるものがない。

夫は、親の影響を受けて、無宗教である。積極的に宗教とは一線を画している。どの宗教にもなじまず、消去法によって無宗教になったわけではない。

わたしはというと、一般的な日本人の宗教観だ。よろずの神の存在をやんわりと感じながら、畏怖の心を持っている。同時に、日本へ帰るたびに、先祖の位牌のある仏壇の前で手を合わせる。

子どもたちには、夫とわたしの信仰について、ありのままを話している。それぞれが、自分の信条や育った文化を背景に、なにを信じるかを自分で決めていいということを伝えているつもりだ。

それから、世界には様々な宗教があって、異なる神を信じている人々がいる。それは、だれが正しくて、だれが間違っているということではなくて、違うものを信じているんだということ。そんな話をすることもある。

わざわざ宗教や信仰について子どもに話をするのは、まさにマイケルとの会話のような状況を想定しているからだ。アメリカは、異なる文化をもつ人々によってできた移民の国。当然ながら宗教も様々だ。子どもたちのクラスの中だけでも、どれだけの異なる神がいるだろう。

マイケルたちが帰った後、夫が娘に話しかけた。

「マイケルが言ったこと、ちょっと変な感じがしただろう」

娘はコクンとうなづいた。

「うちとは違うものを信じる人が世の中にはたくさんいるんだよ。宗教のことは、人によってはセンシティブだから、あまり話に出さない方がいいかもしれないね」

すると、娘は力をこめて反論した。

「わたしが言いだしたんじゃないよ、マイケルが聞いてきたんだよ。神様を信じてる?って」

なるほど。わたしも夫も、会話の全容がつかめた。

そうだったんだ。いいんだよ。信じるか信じないか、君には自分の意見をいう権利がある

それを聞いて、娘はちょっと安心したように見えた。自分は間違ったことをしたわけではなかったと感じたのかもしれない。

アメリカで育つ我が家の子どもたちは、こういう経験を日常的に繰り返している。

自分とは違うものに触れて、「なんでだろう」とか「ヘンだな」と感じながらも、違いを違いとして受け入れていく。

この会話をすぐそばで見守りながら、多様性の社会で生きるとは、こういうことだよな、とわたしは考えていた。



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