【人生最期の食事を求めて】ごまさばの愉悦に浸る至極の郷土ランチ。
2023年11月4日(土)
博多ごまさば屋(福岡県福岡市中央区)
太陽が煌々と輝きを放とうとしているものの、重く湿った雲が福岡の朝空を支配していた。
めんたい重、パン、うどん……朝食の選択も10時過ぎともなるとすでに手遅れ感は否めず、人気店には数多の人々が押し寄せていた。
その数は狂おしいと思えるほどで、中洲の細い歩道ばかりか天神中央公園にはまるでコンサートの開演を待つかのような列がうねるように長々と続いていた。
この長蛇の列の最後尾の客たちが食にありつけるのは何時になるのだろう?
そんな疑問が私の脳裡に走るのも無理はない。
そのまま何喰わぬ顔で通り過ぎ、少し早めのランチに思考を切り替え的を絞ることにした。
歩き慣れた道を辿り、海の方へと歩き続けた。
遠い昔から長く歩くのは全くと言って良いほど苦ではない。
歩き慣れた街も、見知らぬ街も、ひたすら歩くことが人生におけるささやかな歓びであることは確かだ。
仏教の行脚とも言われても、私は否定しない。
むしろ歩行禅のように、自己を日々振り返り、自己と対話し、自己の深層を探るという行為そのものなのだ。
昭和通りを大濠公園に向かって歩き続けていると、灰色の淀んだ雲が次第に散り散りになって薄く青い空が垣間見えるようになった。と同時に少し蒸し暑さが立ち込めた。
見慣れた看板の下の歩道にも行列が出来上がっているのが確認できた。
この街に訪れる度毎に味わう、もはや欠かせない定番の店のひとつである。
けれど、来訪客が増えているのは、検索行動と情報拡散が主流の時代においては仕方あるまい。
とはいえ、ごまさばの調理にはさほど時間を要しないということもこの店で幾度となく知らされた。
日本の鯖の漁獲量は、言わずもがな世界一と言われている。
痛みやすいという特徴から生で食することがなかったが、この地では様々な加工や工夫を施すことによって「胡麻鯖」という食を確立したのだ。
行列は少しずつだが店内に吸い込まれていく。
それにつられて私の眼の前に立つ男性客が一歩また一歩、前に進む。
それは牛歩のようであっても、その小さな前進は待つことへの苛立ちを軽減した。
その男性客の足元を見ると履き疲れたサンダルだった。
しかもよく見ると半袖姿である。
おそらく近場に住んでいるのだろうと想像しながら、11月とは思えない暑気を羨ましく思った。
入口の右手にある券売機の横に割腹の良い男性スタッフが券売機での購入、さらに店内への誘導タイミングを見計らっている。
多彩なメニューが揃ってはいるが、「ごまさば丼定食」(1,000円)の選択は揺るぎなかった。
購入早々に、割腹の良い男性スタッフは、
「1名様、奥のカウンター席へどうぞ!」と太く野太い声音が響いた。
店内はお盆を持った威勢の良い声を放つスタッフたちが錯綜していた。
カウンター席に座るなり、若い女性スタッフが「ご飯のおかわりもできますので」と言いながらごまさば丼定食を置いた。
私は、すかさず無料のセルフサービスである南蛮漬けと漬物を皿に載せて自席に戻った。
ネギとタマネギを被ったごまさばの身を掬い上げて口に投ずる。
鯖とゴマとおろししょうがの醸し出す三位一体は得も言われぬ風味を繰り出し、否応もなく海苔が散らばるご飯の温もりを欲する。
大盛とも言えるご飯の量もこのごまさばの鮮度では微量に過ぎない。
さらに南蛮漬けを噛み締めれば、食欲の限界は忘却の彼方に葬られてしまうようだ。
刺身からさば丼に移行し、そうして呆気なくご飯のおかわりを注文した。おかわりの丼を受け取るや否や、出汁を求めて立ち上がった。そうなのだ。ごまさばのお茶漬けに移行したのだ。出汁の効いたお茶がごまさばの楽しみ方を次元を変え、いよいよ最終幕と突入するのだ。要所要所で漬物をついばみ、そして思いのままに掻き込む。満腹でないはずはない。満腹はある意味苦痛と後悔を伴うものだが、ごまさば丼がもたらすものは快楽と満足である。
混雑した店内では長居は無用だ。
完食まもなく外に出ると、薄日を浴びた長く続く列が蛇行していた。
私はそそくさと昭和通りを抜け、ほんのりと浮かぶ汗を拭きながら活気と躍動に弾む天神に方角を定めた。……
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