見出し画像

「黒一点」のジェンダー論

紅一点の反対を黒一点と言ったりする。

女性ばかりの中に一人だけ紛れ込んでいる男のことを指す。

しかし、これはあくまでも俗語であり、正式な日本語では無いらしい(正式な日本語と俗語の”正式な”違いを知りたいものだが)。

俗語な故もあってか、黒一点には、他にもバリエーションがある。

逆紅一点、白一点、蒼一点、緑一点などだ。

ピクシブ百科事典によると、それぞれの由来は以下である。

「黒一点」は、「男性のイメージは黒」という考えから。
「逆紅一点」は、言葉の通り「紅一点」の逆だから、と言う考えから。
「白一点」は、古来より「白」が男性を指しているという考えから。
「蒼一点」は、紅の反対が蒼という考えから。
「緑一点」は、語源の「万緑叢中紅一点」で「紅」が女性を意味するなら「緑」が男性を意味する、と言う考えから。

ピクシブ百科事典

引き続きピクシブ百科事典によれば、黒という字は、汚れを意味することもあるので、余り宜しくない言葉だそうだ。

それが理由で、このようなカラコン顔負けのバリエーションが誕生したのだろう。

私が無知なだけかもしれないが、「女性の集団の中にいる一人の男」というような、そこそこ具体度の高い概念を表す言葉で、これだけ多くの表現が存在する例はあまり無いのではないだろうか。

これは、古来より、「男性」いう言葉が、そこに含まれる人間の多様性を包含しつくすことができていなかったということを暗に示しているのではないだろうか。

いつの時代も、男ってなんだ?という問いの行き着く先は「でも、究極個人個人で違うよね〜」という結論だった。

それが、黒という一色のみにその表現を限定することを妨げていたのではないか。

そのように感じるのである。

翻って、紅一点についても考えてみたい。

調べたところ、こちらの類義語には、黒一点のようなカラーバリエーションは無いようだ。

しかしながら、以下のような表現が「男性集団の中の唯一の女性」を表す言葉として存在する。

掃き溜めの鶴、鶏群の一鶴、泥中の蓮、など。

これらの類義語の羅列から想像されるのは、女性もまた、男性と同じくただ一つの表現に押し込むことができない概念だったということだ。

しかし、それと同時に、私がその存在感を感じずにいられないのは、やはり今回も男性を表す言葉の多様性である。

黒一点のときは色を変えただけだったが、今回はひどい。

掃き溜め、鶏群、泥中。

男性と言ってもいろんな人間がいるはずだ。

清潔感に気を配り、夜な夜な化粧水を塗って、毎朝メイクをする男性も増えてきた。

そんな彼らの集団を一括りにして、ゴミ捨て場だとか、泥沼だとかいう言葉で形容している。

もちろんこれは、女性の美しさを際出せるためにわざと汚い言葉を使っているということだろうが、では、女性は女性でそれほどキレイな存在だろうか。

ろくにお風呂に入らない女性もいるはずだ。

メイクまでバッチリの男性諸君の中に、3日間風呂に入っていない寝巻き姿の女性がいた場合、泥のように見えるのは一体どちらだろうか。

これらの日本語表現の中で、女性はかなりヨイショされている。

しかし、このような表現が今日までまかり通ってしまっているということの裏には、女性はそのようにあるべきだという無言のプレッシャーが潜んでいる。

たとえ清潔感のある男性の中にあっても、その男達がただの泥や鶏の群れに見えるほど、美しくあるのが女性である。

黒一点のカラバリ表現には見られなかった、そんな画一的な女性像が、これらの表現には垣間見える。

これはかなりハードルの高い要求だ。

そして、上述したように、男性の美容への意識が高まっている昨今、このハードルはさらに高くなっている。

従来のお化粧やスキンケアだけでは、男性に対して泥と蓮ほどの差をつけることが難しくなってきている。

女性たちがこの高いハードルを飛び越えるためには、もはや、ただの走り高跳びから棒高跳びへとその競技を変更するしかない。

脱毛やプチ整形というのは、そのために必要な棒高跳び用のポールなのである。

ある性別の集団の中に一人だけ異性がいるという状態を表現する際に、ただ色を変えるだけで多様性を確保することができた男性と、そんな男性の中から、その美しさをもって抜きん出て、その上で、その美のあり方で差異をつけなければいけなかった女性。

このように女性に対して偏った重圧が存続してきた世の中なのであれば、フェミニズムの対義語(マスキュリズム)が流行していないことも納得できる。

昨今、性の多様性を訴える活動が世界中で盛んになってきた。

LGBTQをキーワードに、一見男性に見える人でも、実際はゲイだ、いやいやトランスジェンダーだ、本当はアセクシャルだ、ということがある、と、想像力を持って接することで、傷つく人を減らそうという運動だと解釈している。

男とはこういうもの、女とはこういうもの、と決めつけてかかってはいけないということが時代のコンセンサスになりつつある。

このような運動は、セクシュアルマイノリティ当事者の生きづらの解消がその第一の目的だろう。

しかしそれは同時に、男性と女性という、従来より認知されてきた性別に対して、その中での一人ひとりの多様性を無視して画一的に押し付けられてきた社会的プレッシャーを解きほぐす契機にもなっているように感じる。

紅一点、黒一点という表現から心機一転した先にある世界。

そこではどんな言葉を使って、一対多を表現するようになるのだろうか。


いいなと思ったら応援しよう!

Takumiのessay
最後までお読みいただき、ありがとうございました!