教師になんか 絶対ならない 3/3
「夏に咲く花は赤い花ばっかりだから、太陽光線と赤い色素には何か関係があるんじゃないかな〜と思うんだ〜。」
当然だが夏には赤くない花も咲くのでこの話は前提から間違っている。また、たとえこれが合っていたとしても、このようなレベルの低い気づきを、普通は人の時間を奪ってまでは話さない。話すべきではない。
つまり彼は、非常に鈍い洞察力によって間違った法則性をこの世界に見出し、そこから考えうる、生産性もオチもない気づきを私達に話して聞かせていたのだ。
なんの参考にすることもできなかった。
また、これに加えて、教師全体に対する疑問もあった。それは、社会に出たことの無い人間が、これから社会に出る生徒たちに対して何を教えることができるのかということである。
大学を出てそのまま高校教師になるというルートを通る人は多いと思われるが、この場合、彼は一生学校の中だけで過ごしている。人生で関わる人間の殆どは子供であり、学生である。
そんな人間に何も教えられるわけがない。そのように考えていた。
私の担任も一生学校ルートを取っていた一人だ。
つまり、彼の決定的に悪い点とは、訳のわからない薄っぺらい話ししかできないような知見と人間性しか持ち合わせていない上に、社会に一歩も出たことが無く、勉強以外のことが全く教えられないのにも関わらず、あくまで先生然とした偉そうな態度を取り続けていたという点である。
鈍いがゆえに自分の鈍さには気づくことができず、「高校教師」という肩書にあぐらをかいて、生徒に対して、あくまでも上から目線でしか接していなかった。
だから私は彼が嫌いだったのだ。
しかし、教師という特殊な環境に長年置かれているということを考えると、しょうがないことなのかもしれない。
毎日毎日自分が当然のごとく理解できていることを、理解できていない生徒という目下の人間に教え続ける。生徒も「先生、先生」と敬語で接する。
そんな日常を何年も繰り返せば、自然と尊大な態度にもなっていくだろう。
そんな目で見ると、他の教師も全員そのように思えてきた。
この環境にあっても、自分の弱さに目を向け、謙虚に自己研鑽をし続けられる人は稀だろう。
少なくとも、自分は変容してしまうだろうと感じた。今はそんな教師を冷静に見えているが、いざ何十年もこの環境に身をおいた時、そんな自分を保てるとはとても思えなかった。
これをもって、第三段階、すなわち、教師という職業を続けることは自分を無知で尊大な人間に変えうるとうことに気づく段階が完了した。
以上の三段階を経て、私は、教師にだけはならないことを決意した。
ただこれは、教師という職業がいらないとか、誰も教師になるべきではないということではない。あくまでも、私という個人はなるべきではないと思ったということにすぎないので、あしからず。