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机上の空論も机しだい

あなたの家には机があるだろうか。

殆どの人はこの問に「はい」と答えるだろう。食事を摂る、ものを書く、工作をする、などなど、様々なことをするのに机は必要である。刑務所の独房にだって机はある。どんな大罪を犯したとしても、人間には机を持つ権利があるようだ。

さて、私が今机と呼んでいるもの。これは一体何なのだろうか。

机は机に決まっているだろ、と呆れられるかもしれないが、実際、机というのはどんなものかよく考えたことがないのであれば、改めて考えてみる価値はある。

私の部屋にある机を例に取って考えてみよう。これはいわゆる勉強机である。私が小学校に入学した際に両親に買い与えてもらったものだ。茶色い木でできた机。本立を置いて本を並べ、教科書やノートを広げてもまだ十分に余裕がある。引き出しも付いた、丈夫で立派な机である。

では、今度はみなさんの家にある机を観察してほしい。

その机は私の机と同じようなものだろうか。似たような机を持っているという人も中にはいるだろう。勉強机という性質を考えると、自分の部屋には似たものがあるが、居間など、他の部屋には違ったタイプの机があるというケースもあるのではないか。

家にある机を順番に見ていくと、机と一言で言っても、その種類は数多くあることに気がつく。材質、足の数、天板の大きさや形、高さ、重さ、色、値段...。こういった机の性質の全ては普遍的なものではなく、机によって様々である。

では、机を机たらしめているものとは一体何なのだろうか。

私が思うにそれは、ひとえに、私達の認識である。言い換えると、それを私達が机として使っているかどうかということが、それが机であるかどうかということに直結している。

これはダンボールを机として使うときなどを考えるとよく分かる。引っ越ししたてで家具が揃っていないようなときには、一時的にダンボールを机として使うことがある。

このとき、ダンボールはもちろん変わらずダンボールのままそこにあるのだが、その上で食事をしたり、勉強をしたりすることによって、それはれっきとした机になっている。

ここから分かるのは、机は、机として作られるから机になるのではなく、机として使われるから机になっているということである。

ここであらためて、あなたの家にある机を見てほしい。それは机だろうか。

あなたがそれを机として使っているとき、それは机かもしれない。しかし、そうでないとき、それは何なのだろうか。

あなたが見ているものは、どうしてあなたが見ているものになっているのだろうか。

それを考える契機を作りたく、書いた。


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