旅する建築家。「アメリカ~NY編~」
1975年のニューヨークに憑りつかれている。
映画『タクシードライバー』の撮影が行われ、TVショー『サタデーナイト・ライブ』の放映が始まり、ポール・サイモンの『時の流れに』が発売された年であり、私の人格の基礎を形成する「三種の神器」である。
そのフィルムに、ヴィデオ・テープに、アナログ・レコード盤に記録された「1975年のNYのアトモスフェア」は、村上春樹の『ノルウェイの森』に封じ込まれた「1969年の新宿のアトモスフェア」と同じく、
「知らないのに完璧に知っている」時空である。
そもそも記録メディア(音、映像、文章)とはローファイのタイムマシーンであるのだが、こと「1975年のNY]と「1969年の新宿」に関しては、その空気の粒子の一つ一つまでリアルにこの時空にトリップことが出来る。
気が向いたらいつでも。
そんな訳で、NYに関しては米国の高校時代の1985年に世界史の先生のMr.ジュンに連れられて(親子のように仲が良くなり、後に私の日本の実家にもやってきた)、遂に夢にまで見たNYに上陸した。
NYに入る前の遠景で初めて「摩天楼」を見た時の異様な興奮はいまだにハッキリと身体に刻み込まれている。
その後、大学一年の時に一人で再びNYを訪問した。
一人でジャズ・クラブを巡り、MoMAに行き、
「メアリー・ブーン」や「レオ・キャステリ」らの1980年代の現代アート・シーンを牽引していたイケイケ・ギャラリーを廻った
そしてさらに、大学四年、1989年の夏に学友の「グン(※「長崎・軍艦島編」参照)」と二人でNYの地を踏んだ。
飛行機はJFK空港にランディングした。
私にとって三度目のニューヨークであるが、グンにとっては初である。
空港からバスに乗ってマンハッタンを目指した。
それまで滞在していたLAと打って変わって、街の空気が緊張している。
バスを降りるとストリートを歩いた。
道路の換気口から立ち上る湯気、鳴り響くクラクションの音、時折漂うマリワナの匂い、、、まぎれもなくニューヨークであった。
我々はグンの親父さんのツテで、ロウワー・マンハッタンのアパートにホームステイすることになっていた。
アパートには、白人のお母さんと小学生の娘が暮らしていた。
我々には部屋の一角が与えられた。それぞれソファーで寝るようだ。
お母さんと娘は、アメリカン・ホーム・コメディのような「典型的な嘘くさいアメリカ人の過剰コミュニケーション」のやり取りを延々と続けており、我々は苦笑いをしていた。
とりあえず荷物を置いて、その日は眠った。
翌朝、寝たら絶対に起きないグンを尻目に、私は一人で街に出て、街のキオスク・スタンドで『ヴィレッジ・ヴォイス』を買った、要するにニューヨークの『ぴあ』である。
部屋に戻って、『ヴィレッジ・ヴォイス』を隅々まで読んだ。
すると、とある広告が目に飛び込んできた。
「マイルス・デイビス in インディゴ・ブルース」
私は目が飛び出しそうになった。
(マ、マイルス~っっっ!!!???)
日付を見ると、なんと明後日であった。
しかも、「インディゴ・ブルース」は所謂「ジャズ・クラブ」である。
マイルスをそんな小さな場所で観れるなんてとんでもない話であった。
私は寝ているグンを叩き起こした。
「おい!マイルス、マイルスやるぞ!!!」
グンは寝ながら「お、そうか~、、、」と言ったきり動く様子はなかった。
私はさらに記事を読み込んた。どうやら今日、ライブハウスの窓口で整理券を配布するとのことだった。
私はグンを部屋に置いて、一人でインディゴ・ブルースへと向かった。
発券の1時間前に着いたら、私の前に一人だけ並んでいた。
1時間待ち続けて、ついに窓口が開いた「2番、3番」が我々の整理番号であった。
「地に足が付かない」とはこのことだろう。
私はフワフワとした、夢の中にいるような足取りで部屋に戻った。
ひとまずマイルスのことは置いておいて、
日中、我々は美術館巡りをした。
こう見えて我々は「美術大学」の学生である。
我々はまずグッゲンハイム美術館に向かった。フランク・ロイド・ライト設計の名美術館である。
着いてみると、なんと『エドワード・ホッパー展』である。我々は「アメリカ大好き!ホッパー大好き!」な二人組であった。
我々は大満足した。
次に向かったのはMoMAであった。
大学で勉強した現代美術の現物が、所狭しと陳列されていた。
それから中華街へ行き、極上の台湾料理を食した。中華街では、白人観光客が超ビビりながら観光をしていた。
そんなうちに、ついに「マイルス」の夜がやって来た。
我々が会場に着くと、すでに十数人が列を作っており、中からファースト・セットのマイルス・バンドの音が漏れてきた。
「やべ~!!!!」と呟きながら我々は整理番号順に「前から二番目」に並んだ。
開場とともにライブハウス内に歩をすすめ、我々は「最前列ど真ん中」の席を陣取った。
50センチ先はステージである。
しかも、ステージと客席との段差は3センチ程だ、
緊張した私はトイレに行き、隣の白人男性に話しかけた。
「ファースト・セットいたのか?どうだった?」
「凄かったぜ!」
「マイルスはグレートだからな」
「そうだ、今現在もグレーテストだ」
緊張のピークを迎えながら、我々は最前列で「神」の降臨を待った。
そして遂に客電が落ちた。
ステージ向かって左側の扉が開いた。
逆光の中、遂に「あの!!マイルス・デイビス!!!!」が我々の前に姿を現した。
両脇に大柄で屈強な黒人ボディーガードを従えて登場したマイルス、
「ち、小さい!?」
身長は160センチほどしかなかった。
そして上半身はガリガリに痩せ、お腹だけがポッコリと飛び出していた。
「捕獲された宇宙人!?」
それが「数々の伝説に彩られたジャズの帝王」の第一印象だった。
そのまま、マイルスは我々の目の前に来た。
50センチ先にマイルス・デイビスが居るのである。
正直、怖すぎて顔を見ることが出来なかった。
バンドは、ケニー・ギャレット、ケイ赤城、そしてドラムは「チャック・ブラウン」のバンドに居たリッキー・ウェルマンである。
1曲目が始まった。
完全に「GO-GO」である。
「GO-GO」とは1980年代にから90年代初頭にかけてワシントンDCで一世を風靡した、ラップとファンクとジャズを掛け合わせた当時最先端のブラック・ミュージックのことである。
「GO-GOキング」チャック・ブラウンのバンドから引き抜かれたリッキー・ウェルマンを中心に、バンドが「GO-GO」グルーヴを高める。
そこへ遂に満を持してマイルスが吹いた。
マイクはあったが、50センチ前である。
つまり、我々は「マイルス・デイビスの生音」を聴いたのである。
そこからは、どんでもない世界が繰り広げられた。
世界最高峰の高度なテクニックで、世界最高峰のグルーヴの音楽を奏でるのだ。
マイルスは時折シンセサイザーのところに行き「ぴゃ~♬」とヘンチクリンなコードを鳴らした、TVで何度も見たことあるシーンである。
私は座りながら踊りまくった。
「これはダンス・ミュージックだ」という強烈なメッセージを感じ取り、「客としての使命」として踊り狂った。
50センチ先にはマイルスが居た。足を引っかけないように、自分の脚は入念に折り畳んでいた。
定番『タイム・アフター・タイム』のカバーも、『TUTU』も演った。
何というか、変な例えだが、「音楽とSEXしている気分」であった、それも世界最高峰の超テクニシャン相手に。
アンコールを終え、我々は夢見心地にあった。
「ものすげえ!!!!」と普段冷静なグンは完全にイカレていた。
一方、日本に帰った私はすぐに安物のトランペットを買った。
※我々が行く約8か月前の、同じく「インディゴ・ブルース」でのマイルスのライブ