【人間の闇礼賛!】アントニオ猪木は生きている。
※本テキストはアントニオ猪木逝去の”ニュース”の時に書かれたものです。
小学校低学年の頃、
我が家の祖母がプロレスの大ファンで、土曜日の午後(当時の静岡での放送時間)は、祖母と二人でプロレス中継を観るのが常だった。
祖母の血筋は筋金入りのプロレス好きの家系で、祖母の兄にあたるおじいさんが亡くなって葬儀に駆けつけたら、お棺の中に『週刊プロレス』が敷き詰められていた。
余りのシュルレアリスティックな光景に、私の涙腺は大決壊した。
そんな幼少期の私は祖母と二人で、「猪木vsロビンソン」「猪木vs小林」「猪木vsシン(大阪腕折り)」を観た。
そして猪木vsアリの日は確か土曜日、その1週間は日本中が異様な興奮に包まれていた。
その日は学校や会社どころではなく、小学生もサラリーマンも家に向かってダッシュし、テレビの前に正座した。
ウィリー戦は、とにかくリングサイドの極真軍団が異様な殺気を放っていた。
ルスカ戦は、確か放送時間に終わらず、プロ野球中継みたいに試合の途中で終わった。
シン戦で、興奮した青年がリングに上がってシンに殴りかかり、逆にボコボコにされたのは衝撃的だったが、アレは仕込みのバイト君だったと後に発覚したが、手加減を一切しないシンのプロ魂はいまだに尊敬している。
そして、
1980年代に入ると、猪木は精彩を欠いた。
「延髄切り」という技を出し始めた頃から、猪木は輝きを失った。
その凋落と裏腹に、世間では猪木ブームが巻き起こった。
その、見る目の無い「にわか」ファンに激怒し、私は猪木から距離を置いた。
私の生活の中心がプロレスからロック・ミュージックに変わったのもその頃だ。
だが、プロレスを観る事は決して辞めなかった。
当時のテレビ朝日の金曜日の夜は奇跡であった。
『ミンキーモモ』〜『宇宙刑事シャリバン』〜『新日本プロレス中継』〜『ハングマン』〜『必殺仕事人』、と続く、神々のラインナップであった。
さて、その中でも猪木vs国際軍団は日本中のヒートを買っていた。
国際プロレス・ファンの私からしたら、崩壊した国際プロレス軍団が新日本に移籍して来た経緯は普通に理解していたが、「にわか」たちはやたらヒートアップしていた。
可哀そうなことに、ラッシャー木村の飼い犬は、「真に受けた」猪木信者の自宅への嫌がらせによってノイローゼになって亡くなったそうである。
その後、前田日明が出戻りしてからは猪木の衰えはあからさまになり、
私はむしろ「古き良きプロレス」の象徴として猪木の方を応援をした。
前田戦を避け、政界に進出し、完全に「キャラクター化」したそれ以降の猪木について、私から語る事は特に無い。
ただ、
どれだけ(プロレスの)リング上で猪木が衰えても「いざとなれば最強」とずっと普通に思っていた。
いざとなれば「ペールワンの様にリアルに」腕を折ったり、目に指を突っ込んだり、「ゴッチ仕込みの」肛門に指を突っ込んだり、恐ろしい裏技を使って勝つ、
すなわち「プロレス的に勝つ」
と普通に思っていた。
その「共同幻想」は、『グラップラー刃牙』のアントニオ猪狩として描かれている。
それを読んで「皆んな、同じ事を思ってんだ!」と感動したものである。
朝倉未来が引退したメイウェザーと戦って褒められているが、
猪木は「現役の」モハメド・アリと戦っている。
あの時の、1976年の日本は完全に狂っていた。
それは猪木の狂気を日本国民全員が「当たり前の事」と捉えていたからだ。
アリ戦の前に猪木はパラオ島でキャンプを張り、
現地の魚取りの槍で自分を突かせてそれを避けるトレーニングをしていた。
「ああ、アリのジャブは槍より怖いからなぁ」
と、日本中誰しもが普通に納得していた。
いやいや、オカシイから!
と、2022年から突っ込みたくなるエピソードである。
この様に、猪木は常に「虚構と現実の境界」を行き来していた。
その意味で猪木は生粋の「シュルレアリスト」であった。
ジャイアント馬場が「伝統芸能としてのプロレス」(最上級の褒め言葉)を完成させた真逆で、
猪木は「プロレスと社会」、「虚構と現実」の境界線を揺さ振り続けた。
時としてそれはあからさまな失敗事案も含まれていたが、、、。
そして、2020年代になって難病に衰えた姿を見せていた猪木だが、
「猪木は普通に復活して、大晦日のRIZIN辺りにリングに登場するんだな」と、
「普通に」「何の疑いもなく」思っていた。
病院のベッドに横たわり、車いすで移動していた猪木だが、
今のヒクソン・グレイシーくらい相手なら余裕で勝てると思っていた。
多分、目に指を入れて、隙を突いて小指を折り、肘で脊髄を壊して廃人にするだろう。
もちろん車椅子とか、病院のベッドは「擬態」である。
私の知ってるアントニオ猪木ならそのくらい余裕でする。
そしてニュースによれば、猪木はどうやら死んだらしいが、
猪木なら死を「擬態」するなんて造作もない事だろう。
ホーガン戦の失神パフォーマンスなんか、俺は冷めて見ていたからね。
「あんなのプロレス道からしたら初心者向けの序の口だよ!」ってね。
そして、猪木は最後までその「強さの底」を見せなかった。
それでいいのだ、それがプロレスなのだ。
なんて書いてたら、
今週の少年チャンピオンの『バキ道』の猪木追悼編は、
そんな意味でのプロレスの神髄と愛に満ち溢れていた。
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さて、
現代の社会は全てがインターネットのフラットな光に隅々まで照らし出されて、「闇」が消えてしまっている。
「闇」とはすなわち「想像力」である。
プロレスは「人間の闇」を肯定する。
裏切り、嘘、ホント、フェイク、リアル、怒り、悲しみ、歓び、、、
それらの間に引かれた境界線をプロレスは揺さぶる。
それすなわち「人間の生」の肯定でもある。
大山倍達、梶原一騎、そしてアントニオ猪木、、、、
彼ら「昭和の神々」は世知辛い社会に隙間を生み出し、
虚実入り乱れる「人間の業」を体現した。
そう、
今の世の中に足りないもの、、、
我々にはもっと「プロレス」が必要なのである。
そして、
世間をアッと言わせるタイミングで猪木は蘇るであろう。
そう考えると、
ジーザスだってプロレスラーであった。
完。