街歩き #003 | 東京都狛江市の旅
東京都狛江市
こんにちは。本日ご紹介する街は「東京都狛江市」です。
狛江市は東京都区部のベッドタウンとして発展し続けている街。日本で2番目に小さな面積の市(1番目は埼玉県蕨市)でもあります。
前日の天気は雨で、急に12月並みの気温となりましたが、この日は一転して絶好の街歩き日和。雨上がりの秋空の下、多摩川沿いを中心にぶらぶらと歩きました。
江戸時代の佇まいを残す泉龍寺・SNS映えする古民家のむいから民家園・渋沢栄一にもゆかりがある玉川碑・私のお薦め寺院である玉泉寺・多摩川水害の二ヶ領宿河原堰・宮尾登美子さん菩提寺の明静院など・・・。
今回は「東京都狛江市」を、小田急線狛江駅から和泉多摩川駅経由で喜多見駅まで、多摩川河川敷を中心に歩きます。
狛江弁財天池特別緑地保全地区
小田急線狛江駅北口のすぐ目の前から広がる緑地保全地区。泉龍寺境内と弁財天池及び陸軍大臣を務めた旧荒木貞夫邸跡地が管理区域に指定されています。
1982年発表の狛江駅北口地区再開発計画に対して緑地保全活動が盛んに。市議会により緑地保全地区とすることが採択され、1987年東京都が保全地区指定。東京都が旧荒木貞夫邸跡地を買収し、1999年から整備開始。2002年保全地区の一般開放を開始。
小田急線狛江駅は準急停車駅。本来であれば駅前再開発されてもおかしくないこの場所に、これだけの自然が残されていることに驚きました。
保全地区指定から35年。この緑地が狛江の個性を形作っているという意味で、保全地区指定の判断は正しかったのではないかと思います。もしこの緑地が再開発されていたとしたら、狛江ならではの街の個性が失われてしまっていたでしょうね。
緑地の奥には、当地和泉の地名由来となった泉龍寺弁財天池があります。良弁僧都の雨乞いにより湧き出した泉と伝わり、池の側には福徳弁財天があります。
泉龍寺 (曹洞宗)
狛江弁財天池特別緑地保全地区の奥にある泉龍寺。
765年良弁僧正が法相宗・華厳宗寺院として開山。949年増賀聖が天台宗に改宗。戦国時代に泉祝和尚が曹洞宗修行道場として再興。1591年当地領主・石谷清定が寺域整備し中興開基。本堂は1706年、鐘楼門は1844年、山門は1859年にそれぞれ再建。
緑に囲まれた美しい境内のあちらこちらに江戸時代の佇まいを残しているお寺です。山門から入って目の前の参道上にある珍しい形の鐘楼門が印象的ですね。
本堂・鐘楼門・山門が一直線上に並んでいる伽藍様式は曹洞宗寺院の特徴をよく示しているとのことです。
< 石谷氏 >
石谷氏は二階堂氏の流れを組み、石谷政清の時代に石谷氏を名乗り始めたとされます。当初は今川義元や今川氏真に仕え、後に徳川家康の家臣となりました。
石谷清定は1547年生。石谷政清の四男。父や兄と共に徳川家康の家臣。1590年家康の江戸入府に伴い、武蔵國多摩郡和泉村・入間村の領主に。現在の小田急線狛江駅の南側に屋敷を構えました。
1591年屋敷近くの泉龍寺を中興開基。良弁僧都ゆかりの霊泉に中ノ島を造り弁財天像を祀るなどして、衰微していた寺域の整備を行いました。1601年没。石谷家の墓所は泉龍寺にあります。
石谷貞清は1594年生。石谷清定の三男。甲斐国などに所領を持つ旗本で2代秀忠・3代家光に仕えました。
1637年島原の乱に主将・板倉重昌の副将として出陣。板倉が討たれ幕府軍は敗走。その責任をとり一時逼塞。
1651年から江戸北町奉行を務め、慶安事件(由井正雪の乱)では丸橋忠弥を捕縛。他に浪人の救済や明暦の大火などでも活躍しました。1672年没。
伊豆美神社の鳥居は1651年に石谷貞清が奉納したものです。
むいから民家園(狛江市立古民家園)
泉龍寺から徒歩5分の場所にあるむいから民家園。
2002年開園。"むいから"とは古民家の屋根葺きに用いられる麦のことです。園内には旧荒井家住宅主屋と旧高木家長屋門があります。
旧荒井家住宅主屋は江戸時代後期の建築。荒井家は村方医師として医師・農業が家業でした。1992年小田急線立体交差事業で解体。2002年古民家園に移築復元。
旧高木家長屋門は1859年の建築。覚東村名主だった高木家の邸宅に構えられた長屋門でした。1999年解体。2010年古民家園に移築復元。
見どころは旧荒井家住宅主屋です。家の中に入って色々と見学することができますよ。囲炉裏のある茶の間の風景がなんともアート。美しい状態に復元されていますね。
伊豆美神社
むいから民家園から徒歩5分。住宅街の中にある神社が伊豆美神社です。
旧郷社。889年大國魂神社より勧請し、六所宮として多摩川のほとりに建立。1550年多摩川洪水で流失。1552年現在地に遷座。1868年伊豆美神社に改称。
境内に置かれている大胆な書体の看板には少し圧倒されますが、旧郷社の格式のある神社です。鳥居から拝殿までの長い参道は、木々の緑に覆われていて神域のパワーを感じることができます。
< 井伊直弼公敬慕碑 >
伊豆美神社の境内には、1901年建立の ” 井伊直弼公敬慕碑 ” があります。開国を成し遂げた井伊直弼と井伊家に儒学者として仕えた小野雄八の功績を伝える顕彰碑です。
かつて、和泉村の一部は井伊家世田谷領でした。小野雄八が当地和泉村出身であった縁で顕彰碑が建立されたと伝わります。
玉川碑 (万葉歌碑)
伊豆美神社から徒歩5分。玉川碑は万葉通り沿いの住宅地の中にあります。
1805年建立。万葉集の " 多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき " が万葉仮名で刻まれた歌碑は、寛政の改革で知られる松平定信による揮毫。1829年多摩川洪水により流失。現在の碑は松平定信を敬慕する渋沢栄一の援助を受け、1924年に旧碑の拓本を模刻し再建されたものです。
高校の教科書にも載っている万葉集の東歌。歌の内容は「多摩川にさらされている手作りの布のように、どうしてこの子はこんなにも愛おしいのだろうか」という意味です。
歌に詠まれているように、かつての多摩川では水を用いた布の生産が盛んでした。近辺にも調布・布田・砧といった布にまつわる地名がありますね。
この碑の再建にあたり渋沢栄一に援助を頼んだというところが興味深い。渋沢の仲介で、大倉喜八郎や安田善治郎などの名だたる実業家が、再建費用の寄付に加わりました。
渋沢が晩年に様々な社会事業で財界に寄付を募る場面は、大河ドラマ ” 青天を衝け ” でも描かれていましたね。
玉翠園の石垣
玉川碑から多摩川に向かって歩いてすぐのところにある玉翠園の石垣。
1906年井上公園として開園。1913年公園内に料亭の玉翠園を開業したことで、この地自体が「玉翠園」と呼ばれるようになりました。玉翠園は戦況が悪化したことと多摩川の汚染がひどくなったことを理由に1939年閉鎖。現在は石垣の一部のみが残されています。
案内板にある写真の左側。石垣の上に松林と共にあるのが玉翠園です。絵画を見ると、石垣の真下まで多摩川が流れていて、屋形船が周辺に浮かんでいる様子が見られます。
当時の多摩川・玉翠園は、富士山や丹沢が遠望でき、船遊びや川魚料理が楽しめる行楽地。都心からの多くの来園者で賑わっていました。
多摩川五本松
玉翠園の石垣から多摩川沿いに5分歩いたところにある多摩川五本松。
新東京百景にも選ばれている狛江を代表する景観の一つです。実際は5本ではなく10数本の黒松が茂っています。調布の映画撮影所にも近く、かつては時代劇のロケで多く使用されていました。
確かに松林の道中を歩くシーンなんかがよく似合いそうな風景ですね。今は刑事ドラマなどで使われることが多いそうです。
多摩水道橋
多摩川五本松から多摩川河川敷を歩いていくと多摩水道橋が近づいてきます。
1953年竣工。相模川の水を川崎市長沢浄水場から都内へ供給する水管橋および狛江と川崎を結ぶ"登戸の渡し"に代わる道路橋として架橋。"登戸の渡し"は多摩川最後の渡し船でした。エメラルドグリーンが美しいアーチ型の橋は1995年竣工の2代目の橋。
秋空の下、川にかかる多摩水道橋は多摩川らしさを感じますね。橋の対岸は川崎市多摩区の登戸です。
玉泉寺 (天台宗)
多摩川水道橋から10分ほど歩いたところにある玉泉寺。
多摩川観音第19番。634年浄慶法印が大輪寺として開山。かつては多摩川の対岸にありました。1261年頃北条時頼が再建。多摩川洪水被害で1504年尊祐法印が現在地に中興開山。
多摩川近くの東和泉にあるお寺で、玉泉寺の寺名は、多摩川の "玉" と和泉の ”泉” からきているのではないかと推測します。近くの駅名も和泉多摩川駅ですね。
境内でお会いした作業服を着られた方(おそらくご住職だと思います)に多摩川観音札所で参拝した旨伝えるとご丁寧に観音堂を開けて頂きました。こういう参拝者を歓迎していただけるお心遣いがとても嬉しい。
観音堂に祀られている十一面観世音菩薩像は行基作と伝わります。周囲にいらっしゃるのは十王像でしょうか。しっかりと手を合わせさせていただきました。
手入れの行き届いた境内で穏やかな心持ちになれる大変素敵なお寺です。
二ヶ領宿河原堰・多摩川決壊の碑
玉泉寺から再び多摩川河川敷に向かい徒歩10分。多摩川の中に二ヶ領宿河原堰があります。
1974年の多摩川水害。台風16号で本堤防が決壊し、家屋19棟流失の被害が発生しました。1999年に被害の教訓から可動堰のみとした二ヶ領宿河原堰が竣工。近くには多摩川決壊の碑も設置されています。
多摩川は昔から氾濫を繰り返す暴れ川。令和元年台風19号での内水氾濫も記憶に新しいところです。河川の氾濫は決して過去の話ではありません。多摩川水害の教訓は風化させてしまってはならないと改めて感じました。
< 多摩川水害と岸辺のアルバム >
1974年9月1日、台風による大雨のため発生した多摩川堤防の決壊。マイホームが次々と濁流に呑まれていくニュース映像は当時の視聴者に大きな衝撃を与えました。
NHKのニュース映像を見ると、この猪方地区の河川敷だけがえぐり取られるような形で被害を受けていることがよくわかります。
被害の主な原因は、固定式の二ヶ領宿河原堰が水流を阻害したことにより発生した大きな迂回流でした。この多摩川水害の教訓を踏まえ、可動式の二ヶ領宿河原堰が完成したのは1999年のことでした。
この多摩川水害を題材に山田太一脚本で製作されたのが、1977年放映のテレビドラマ「岸辺のアルバム」です。
この作品は平凡な中流家庭の崩壊を描いた衝撃作で、テレビドラマ史に残る名作と評されています。私はこのドラマは見ていませんが、いつか機会があれば見てみたいなと思います。
岩戸八幡神社
二ヶ領宿河原堰から多摩川を離れ、30分歩いたところにある岩土八幡神社。
1558年北条氏康の招きで古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮に参拝した際、神前大相撲が開催されました。これに優勝したのが世田谷城主・吉良頼康配下の秋元仁左衛門。懸賞の八幡神体を持ち帰り、八幡神社を勧請したことが神社の起源と伝わります。
大相撲が由緒の神社とはなかなか興味深いですね。岩土地区は、戦国時代には世田谷領主・吉良氏の影響が及んでいた地域でした。
岩土地区にはちょっとした舗道に水流のせせらぎが流れていました。さすが、”水と緑の住宅都市・狛江” ですね。
明静院 (天台宗)
岩土八幡神社の隣に明静院があります。
1530年台順法師開山、喜多見領主の喜多見廣重開基。丁寧に手入れされた境内がなかなか心地よいお寺。こちらには狛江市在住だった作家・宮尾登美子さんの墓所があります。
喜多見氏は鎌倉御家人であった江戸氏の末裔。江戸氏は戦国時代に江戸を太田道灌に明け渡し、喜多見に移った後に喜多見氏を名乗るようになりました。
明静院は作家・宮尾登美子さんの菩提寺。宮尾さんは1979年からお亡くなりになった2014年まで狛江にお住まいでした。”序の舞” ”天璋院篤姫” "蔵"といった名作は狛江に移ってから書かれた作品です。
大河ドラマでは、2005年の "義経" と2008年の ”篤姫” で、宮尾さんの本が原作として使われていましたね。
小さな旅の終わりに
多摩川とともにある ”水と緑の住宅都市・狛江"。御朱印巡りだけしていた頃はなかなか来る機会がなかった街でした。今回、多摩川沿いを中心に街歩きしてみると、古代から現代まで様々な歴史に触れることができ、大変興味深い街でした。
旅のスタートは小田急線狛江駅。駅近くにあるのが狛江市の中心寺院である泉龍寺です。江戸時代の佇まいを残した緑に囲まれた境内に心癒されました。
むいから民家園はアートな感じの古民家が素敵ですね。今の時代はSNS映えを意識することも重要。文化財維持とは " 施設を現代に活かし続けること " だと思っています。
和泉多摩川駅近くの玉泉寺では、わざわざ観音堂を開けていただくなどのご配慮をいただきました。こういう参拝者を温かく迎えていただけるお寺は嬉しいですね。
狛江街歩きのメインはなんといっても "多摩川" 。古代の多摩川は万葉集にも歌われた布の生産地。江戸時代には津久井道にかかる登戸の渡しが重要な役割を果たしていました。大正時代には玉翠園が作られ、多摩川は都心からの行楽地として大いに賑わいました。
かたや、多摩川は昔から氾濫を繰り返す暴れ川。令和元年台風19号が記憶に新しいところですが、1974年の多摩川水害の教訓も風化させてはならないと思います。
狛江の歴史は ” 多摩川と共にあり ”。多摩川沿いの河川敷はウォーキングに最適なとても気持ちの良い場所でした。
狛江での一曲は Janis Ian の " Will You Dance? " 。狛江市を舞台にした名作ドラマ「岸辺のアルバム」の主題歌として使われた曲です。メロディは美しいのですが、結構退廃的な内容の歌詞だったのにびっくり。