夏の備忘録

年をとると時間の流れが速くなるという。それは子どもの頃、若い頃と比べて自分自身に差し迫る問題が増えたからだろうか。来年のことを言うと鬼が笑うと言っても、この夏の二ヶ月で起きたことを考えると、最近は来年どころか一ヶ月先のことすら予想もつかない。

8/1に某老人ホームへ正社員として入った。とある事情で以前から一緒に仕事していた人々も多く、馴染むのは難しくなかった。仕事内容も、今までの経験が生かせるのでそう難しいことはなかった。ただモンスターと化したクレーマーが入居しておりその家族も異常な丁寧さで執着してくる上に逐一対応してくれという常軌を逸した人種だった。担当医も嫌味の塊だった。60人の入居者の顔と名前は例えば転倒、指の腫れ、下痢、発熱といった本人にとっては不幸なネタから覚え始め、10日たてばぼぼ全員が一致した。人手不足はどこも変わらず、二人でやってどうにか追いつく内容を一人でやった。定時で帰りたいと昼休みなしで仕事をしていたら倒れると思ったので休憩はきっちり取り、残業で片付けた。何があっても笑顔で対処していたら、帰宅してからも仕事の段取りが頭の中を侵食してくるようになった。言葉を選ぶべき大切な人、二次創作を行う上での誰よりも大切な同志への返事を書こうとするが、文章が全く浮かばない。いつもならもっと気の利く言葉が浮かぶのに。

結局自分は三週間で倒れた。それは8/23で亡父の誕生日だったので父が生きていたら悲しんだだろう。救急搬送先は患者を小馬鹿にする病院だったので腹立たしさ、胸糞悪さのあまり体調の悪さを忘れるほどだった。ここにいたらもっと酷い病気にされると思い、すぐ帰宅した。翌日、残した仕事が気になり仕事場へ遅刻して行った。普段冗談ばかり言う馴染みの職員が「自分に出来ることあったら言って下さい」と真剣に声をかけて来た。その職員はずっと年上なのに常に敬語で接してくる。仕事内容は雑だが、何か頼めば必ず対応してくれ、自虐ネタで自分を和ませてくれる、その職員を自分は信頼していた。

8/25、施設に入居中の義母のSPO2が取れないと連絡が入り様子を見に行った。そろそろだと感じた。8/26、一年近く寝かせておいた二次創作を上げる日だ。二次創作を再開したのはこの文章の為だったのであとは考えなかった。この日は自分にとっては特別な日だったが、現実はふらついた体で出勤して往診医の対応をし、モンスタークレーマーの対応も重なり真っ白な頭で残業しているありさまだった。帰る時、なぜかもうここには来ない予感がして荷物を9割持って帰った。
8/27、いつもの心療内科に行くと条件反射のように涙が出る。「辞めるなら三ヶ月休みで診断書を書くが」と言われたのでそうしてもらい、直後に職場に連絡した。自分の数倍仕事の出来る親切な派遣社員のさらなる負担を思い、心の中で詫びた。その反面これで来月のヴァイオリンの発表会の時間が取れると思った。
8/28、夫と連れ立って施設の義母を訪ねた。もとは肉づきのよい人で衰えた感じはないが、さすがに小さくなり、言葉を発することはすでになく、鼻の先が冷たい。もう長くないことは一目で分かる。終末期は何もしないことを伝えてある。それが現場にとって一番やりやすく、本人も苦しまなくて済む。

8/29、夫と美術館へ行った。こういう時に敢えて行くのが好きだ。帰宅すると人事部から連絡が来た。二ヶ月の試用期間中なので一ヶ月しか休養を認められず、9/26までに復職できなければ自動的に退職になるという。猶予は三ヶ月あると思っていたが会社には会社のルールがあるのだと今さらながら感じた。
新聞に転職で悩む人生相談が載っていた。親身なアドバイスの最後に「ドライに」職場選びを、と書いてあった。その一言は自分にないものだった。そうか、それで良いのだと思った。

八月のどこかで中二の娘は両耳にピアスを開けていた。勿論校則違反だ。夏休みに入ること。八月から母親が仕事で多忙になること。冷房の効く離れた部屋を自分の部屋にしてもらったこと。歩いて行ける距離に大型ディスカウント店が出来、そこには当然ピアッサーも並んでいたこと。彼女にとっては願ってもない条件が揃ったのだった。

8/31、義母を訪ねた。時おり、ぱちりと目を開ける。以前から知り合いのナースと積もる話をした。帰宅直後に呼吸停止の連絡が入りまた行った。全く苦しまず褥瘡も出来ず、静かに旅立った。
夜間だったので死亡診断は明けて9/1となった。自分がトイレに行ったうちに死亡診断が終わっていた。その日のうちに施設でお別れの会をしてもらい、義母の体は葬儀会場に安置され、自分と夫はその隣で葬儀の打ち合わせをした。
9/2、義母の湯灌の儀に立ち合った。それはまさに儀式で、自分が病院でしていたエンゼルケアとは比べ物にならないほど丁寧なものだった。葬儀は9/7に決まり、前日に最終確認のため再度葬儀場に来てくれという。土曜だったので娘は忌引きが使えずがっかりだった。合間にヴァイオリンの練習をし、喪服を確認した。9/5、施設の部屋の片付けをした。一時間強で済んだ。義父母の遺したゴミ屋敷を取り壊し片付ける作業もこれぐらいで済めばいいのにと思った。翌日はヴァイオリンのレッスンだった。ヴァイオリンの先生は癌で闘病中の母親の世話をしておりその日も母親が救急搬送されその足で転院に付き添い明け方に帰って来たと言う。自分のほうが遥かに楽だ。

学校では二学期が始まり、娘はピアスをしたまま学校に行っていた。髪で隠していたのだった。そんな卑怯なことをするくらいなら自分はピアスをしないとモチベが上がらないから着けていますと堂々と先生に言え、それが出来ないならピアスを着けて通える学校を探せと叱った。

9/7の午前中から葬儀だった。猛暑だったが雨よりましだ。午後に帰宅して5時間眠った。
その後も葬儀の清算、役所での手続き、絵の教室、ヴァイオリンの練習、合間に娘のピアスのことで担任の先生から連絡が入る。何事にも動じず、非難もお説教もせずそれでいて親身に話して下さる。自分より20歳ほど若い先生だが、頭が下がる。自分よりよほど子育てに向いていると思う。

9/13、ヴァイオリン仲間と練習をする。当初は真面目で控えめな印象の人だったが、ネガティブな発言の多さが自分には気になり始めていた。その人は帰り際に「あと一週間で何が出来るの」と言い放った。
自分は義母のことで九月前半の練習をキャンセルせざるを得なかったが、例えそれがなくても発表会までの一週間をいつも通り大切に使いたかった。今後その人と練習はしないだろうと思った。

9/14、夫が軽い手術を受けるので付き添う。病院も医師も印象は良かったが見たことのないほどの薬の重複に一発で好印象が消えた。翌々日は発表会前のピアノ合わせで、ここのところの唯一の楽しい出来事だった。

娘は再び学校へ行かなくなり、自分は担任の先生と電話でやり取りをし、夜はメールで娘の様子を学校へ伝える。昼間は相続の問題で不動産屋と話し合い、発表会会場の下見をし、救搬された病院で清算をし、一日一日ヴァイオリンの練習をした。娘は昼夜逆転していて夜中までドカドカと音を立てる。今に始まったことではない。

9/22、発表会の当日は夫が風邪で寝込んでいた。疲れがピークに達したのだった。発表会の会場で一人で居た自分を見かねたのか、後ろで座っていた男性が動画を撮ってくれるという。午前中に出番が終わったからと言うことだった。演奏の出来は今ひとつだったが悔いはなかった。父の形見のハンカチを持っていった。
 
心療内科に復職の確認をするが形式だけで、結局は自分の意思次第だ。復職する気には全くならないので9/26付けでの退職の旨を人事へ伝えた。正社員としての金銭的余裕を前提としたライフプランは消えたが暗い雨空の下で自由を感じた。9/28は個人書店のイベントへ出かけ、自分の聖域めいたものを見つけた気がした。
10/1に仕事場に退職の挨拶に行った。その日になら出勤しているからと約束した施設長はおらず、職員に「今日施設長がいるはずなんですけど」と聞いたら「どっちの?」と返された。新旧の施設長がいるらしいがちょうどいいのか悪いのかどちらも不在だった。旧施設長は例のモンスタークレーマーのことで飛ばされたのかも知れず、そうなら彼も犠牲者だ。そのモンクレのせいで一緒に無言で残業をした日は予感通りに最後の出勤日となった。帰る前に「俺ら同い年なんだよ」と声をかけてきたのは彼なりの労いだったのだろうか。
一番お世話になった先輩へ謝り、他の誰にも会わなかったので荷物を整理して帰った。

その日の午後から流行りのマイコプラズマ肺炎かと思われるほどの激しい症状が出た。体が怠い、喉の痛み、乾いた咳、しばらく風邪もひいていなかったのでこんなに苦しいのかと思った。辞めた職場の保険証は使えない。しらばっくれて受診しようかと腹黒い考えも浮かんだが自分は20代の時に保険請求の仕事をしておりその場合の煩雑さは想像出来るため、良心に従ってやめておいた。国保切り替えに必要な退職証明をさっさと送れと旧職場の人事部に内心で悪態をつきながら待つと10/2の夕方17時過ぎに届いた。もう役所の窓口は閉まっている。10/3に義母の納骨を済ませ、喉をゼイゼイ言わせながら保険証の切り替えを行いながらこれで病院に行ける、と咳止めを飲んで寝込んだ翌日、ひどい喉の痛みはけろりと治っていた。咳もほとんどない。治る見込みがすっと立った。ジェットコースターの如き夏が終わっていた。

久しぶりに青空を見た日中、もっとするべきことがあるはずなのにこの文章を書いている。しかし今どうしてもこれを書かなければ自分は先へ進めない。
これが終わったら洗濯をして傷病手当金の手続きで病院に行かなければならない。そうして保険証を返却し、一昨日から初めたクロッキーと、ヴァイオリンはボウイングの基礎からやり直しだ。定期テストも受けず自分で勉強すると宣言した娘は自分で作ったタイムスケジュールが無かったことのように昼日中から寝こけている。

もうお腹いっぱいだと思っても、年を経るごとに過去を上回る衝撃的な出来事が起こるのだろう。何か理不尽な出来事が起こると、最近では「これで自分の音はもっと良くなる」と思うようになってしまった。ヴァイオリンで思い通りの表現が出来るようになるのは95歳だ、とある巨匠が言っていた。そんなに長生きするつもりはないが、それこそ先のことは分からない。

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