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小説 弦月

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創作大賞2023恋愛小説部門 中間選考通過作品です。時間軸を超えて過去と現在の熱情が交錯する物語。宿世の業と自由意志について書きました。
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記事一覧

小説 弦月(げんげつ)1

小説 弦月(げんげつ)1

〈本文〉
 私が入水心中を図りこの世を去ったのは、18歳になったばかりのある秋の夜のことでございました。その晩は東の空に下弦の月が大きく輝き、あの方のお顔を大変美しく眺めることが出来ました。

 ごう、ごう、とまるで地響きのような海鳴りが絶え間なく聞こえておりました。私は海の無い土地で育ちましたので、生まれてから一度も海を見たことがありません。ですからそれがどんなものなのか最期にどうしても見たかっ

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小説 弦月2

小説 弦月2

 私は水が嫌いだ。

 水を見るのも嫌だが、水の中に入るのはもっと嫌だ。水の中に入ると、全身を締め付けられるような途方もない圧迫感に襲われる。そのうちに皮膚は溶けていき、私と水との境界線は完全に解き放たれる。微生物へと分解されていく。やがて私は水の一部となり、日の光も月の光も届かない真っ暗な水の底を彷徨っている……。

 物心ついた頃から、私はこのような奇妙な感覚に悩まされた。何故こんなにも容易に

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小説 弦月3

小説 弦月3

 私はある紡績工場で女工として働く事になりました。そこには、私と同じように売られるようにして田舎から出てきた娘がたくさんおりました。私よりも幼い少女もおりました。

 毎日毎日朝から晩まで働きました。連日の長時間に及ぶ労働に体を壊すものもおりました。肺病を患って亡くなるものもおりました。私は家にいたときから朝から晩まで働いておりましたし、ここにいれば食事に困ることはありません。ですから真面目に働き

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小説 弦月4

小説 弦月4

 離婚した翌月の日曜日の朝、不思議な夢をみた。

 夢から醒めた時、私はうずくような胸の痛みを感じていた。もともとあまり夢を見る方ではない。見たとしても覚えていないことがほとんどだ。けれども今見た夢は、驚くほど色鮮やかにその光景を思い浮かべることが出来た。

 夢の中で私は知らない男と山道を歩いていた。背が高く、ひどく痩せている男だ。男は呼吸が苦しいようで、私は彼を必死に支えながら歩いていた。彼の

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小説 弦月5

小説 弦月5

 介護老人保健施設「ほほえみ」の就職の面接はあっさりと受かった。直子の口添えもあったし、何より慢性的に人手不足の職場のため、未経験者であってもくるものは拒まずといった雰囲気だった。

 実際に働いてみると、確かに重労働だし、生身の人間を相手にしているぶん今までより遥かに責任のある仕事だった。自分の少しのミスがそのまま利用者に影響する。人の命を、尊厳を、一時的にとはいえ預かっているという確かな感覚が

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小説 弦月6

小説 弦月6

 その方の年齢は30代半ばといったところでしょうか。眼鏡をかけた長身痩躯の寡黙な男性でした。

 そして肺病を患っているようで、借家で一人住まいをなさっておりました。私はその方の家で、女中のようなことをして暮らすことになりました。その方は肺病を患う以前は教師をなさっていたようで、非常に聡明で博識な方でした。同時に優しい心根の持ち主でした。私に読み書きを教えて下さったのです。

 いつしか私はその方

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小説 弦月7

小説 弦月7

 その施設の介護スタッフのシフトはだいたい月に3、4回夜勤があった。夜勤は16時から翌日9時までの勤務だった。日勤は早番、中番、遅番と細かくシフトが組まれていて、休みは土日祝日関係なかった。鈴木さんのほかは、男性のスタッフはひとりだけだつた。

 私は畑違いの職種から転職してきたし、一番下っ端だったので、率先して雑用を引き受けるようにした。迷ったら自分ひとりで判断しないで、先輩に報告して相談するよ

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小説 弦月8

小説 弦月8

 鈴木さんとは表面上はいつも通りに接して、その冬は何事もなく終わった。年が明けて日がどんどん短くなり、やがて春が訪れようとしていた。

 私は腰痛対策として、週に一度マンションの近くにあるヨガ教室に通うようになった。同僚の間でも腰痛を抱えている人が多く、その教室を教えてもらって始めたら、すっかりはまってしまった。ヨガの先生は私よりもひとまわり年上の女性だったが、肌も髪も美しく、とても若々しく見えた

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小説 弦月9

小説 弦月9

 直子とは時々仕事帰りに居酒屋やバーで酒を飲んだ。直子には恋人がいて、結婚の準備を進めているところだった。直子が結婚してしまったら、仕事帰りに気軽に食事をしたり出来なくなるんだろうなと思うと少しだけ寂しかった。

 4月のはじめの週末、仕事が終わったあと直子の恋人とその友達と飲み会をした。直子の恋人は背が高く、日焼けをしているがっちりした男性だった。言葉の雰囲気に、男性的な力強さが漲っていた。サー

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小説 弦月10

小説 弦月10

 翌週の水曜日、鈴木さんと職場で顔を合わせた。私は小料理屋での事を謝った。

「私、お金を払わないで帰っちゃってすみませんでした。鈴木さんが払ってくれたりしました?それなら払います。いくらですか?」

「いや、それくらいいいよ。いつも仕事を頑張ってくれてるし。それより体調は大丈夫?あのあとちゃんと家に帰れた?」
鈴木さんいつもの穏やかな笑顔で言った。

「うちはあそこのすぐ近くなので、大丈夫でした

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小説 弦月11

小説 弦月11

 7月の始め、仕事が終わり駅からマンションへ向かう途中、道ばたで偶然鈴木さんに会った。向こうも仕事帰りだった。彼は白いTシャツにジーンズという格好だった。黒いショルダーバッグを肩にかけていた。

 鈴木さんはおそらく私のマンションのすぐ近くに住んでいるのだろうとは思っていたが、小料理屋以外で会うのは初めてだった。私は近所のスーパーに寄ったので、肉や野菜が入ったレジ袋を右手に持ち、左手にはトイレット

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小説 弦月12(最終話) 

小説 弦月12(最終話) 

 夏の終わり、鈴木さんが10月末で退職することが決まった。まあとっくに決まってはいたのだろうけど、私がそれを知ったのは8月の終わりだった。

 この夏が過ぎて、秋が訪れたら鈴木さんには会えなくなる。私は夜が来ると毎日泣いていた。この気持ちを一体どこに持っていけばいいのかわからなかった。私達はただの同僚で、別に恋人同士だった訳ではない。外でデートしたこともなければ、ラインで連絡を取り合ったこともない

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