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小説 弦月12(最終話) 

 夏の終わり、鈴木さんが10月末で退職することが決まった。まあとっくに決まってはいたのだろうけど、私がそれを知ったのは8月の終わりだった。

 この夏が過ぎて、秋が訪れたら鈴木さんには会えなくなる。私は夜が来ると毎日泣いていた。この気持ちを一体どこに持っていけばいいのかわからなかった。私達はただの同僚で、別に恋人同士だった訳ではない。外でデートしたこともなければ、ラインで連絡を取り合ったこともない。それどころか連絡先さえ知らない。鈴木さんがいなくなっても、多分私の生活は何ひとつとして変わらないだろう。浩と離婚したときとは全く違う。

 苦しい気持ちの中、私の気持ちは少しずつ移ろっていった。

 たとえ一緒になることが叶わなくとも、こんなに好きで仕方がない人と出逢えて、恋人同士でもないのに毎日のように会えて、それだけでも充分幸せだったのではないだろうか。奥さんを傷つけるような結果にならなくて良かったじゃないか。そんな事になったら、私は私を一生許せなくなる。私は鈴木さんの人生の途中にたまたま行きあっただけの存在で、二人の人生のレールは、今までもこれからも決して交わる事はないのだ。そう思うようになった。

 鈴木さんと出逢って季節が移り変わるたびに、私の心のなかでは竜巻のような嵐が吹き荒れた。自分の今までの価値観を全てなぎ倒すような激しい嵐だった。気がつくとまわりは細かい砂だらけだった。そんななかで、砂まみれになりながら私の心は少しずつ静けさを取り戻しつつあった。私の心は寂しい諦めで満たされはじめていた。


 秋がこないかなと思った。私は一刻も早く秋が訪れる事を望んでいた。

 早く、この苦しさを終わりにしたかった。

 肌寒くなってきて、あっという間に10月も終わりに近づいた。私は適当な理由を付けて鈴木さんの送別会には出ないことにした。酔って鈴木さんを困らせるようなことをしないためだ。

 そうして鈴木さんの退職の日がやってきた。朝のミーティングの際、スタッフが集まって鈴木さんに花束を渡した。私は笑顔で見送るスタッフの一人を演じていた。鈴木さんが私を見ることはなかった。

 その日はいつも通りに仕事をして、いつも通りに自宅のマンションに帰った。何もかも全てがいつも通りだった。翌日仕事が休みだったので、私はシャワーを浴びたあとワインをあけてそれをひとりで飲んだ。ふと時計を見ると、23時半だった。

 今日が終われば明日なのだ。明日が来ればもう私の世界に鈴木さんはいなくなり、私にとっての鈴木さんは私の記憶の中にしか存在しなくなるのだ。

 私はスウエットの上にパーカーはおり、その姿のままふらふらとマンションを出た。そして桜の木が植えてある近所の公園へ向かった。酔って火照った肌に秋の風が心地良かった。空を見上げると、下限の月が大きく輝いていた。たしか、今日と同じ月齢の月が同じ日に見られるのは19年後なのだと鈴木さんが言っていた。もう二度と会えなくても、19年後、きっと私も鈴木さんも違う場所から同じ月を見ているだろう。何故かそんな気がした。私は公園のベンチに座った。

 ふと目を挙げると、公園の向こうに人影が見えた。男性がひとりで歩いているようだった。良くみると、背格好が鈴木さんにそっくりだった。マンションとは逆の方向に向かって歩いていた。私の鼓動は激しくなった。

 私は立ち上がり、近くまで走っていって確かめようと思った。

 そのとき強い風が吹いて、桜とプラタナスの落ち葉が土埃とともに舞い上がった。そして砂嵐が見えた。私は思わず目を閉じた。瞳を閉じても瞼の裏に砂嵐が見えていた。
 ゆっくりと目を開けると、そこにはいつもと同じ秋の景色があった。月明かりのなか桜の木の枝が揺れて葉がひらひらと落ちていった。

 その人影はどんどん遠ざかり、ついには見えなくなった。

「鈴木さん……」
 
 私の世界は静かな諦めで満たされていた。

 手元のスマートフォンを見ると、時刻は0時をまわっていた。私はマンションへ向かってゆっくりと歩き出した。歩を進めるたびに、振り返ってはいけない気がした。

 私は月を眺めながら歩き続けた。東の空に大きく輝く下限の月を。……


 

        ※ ※ ※


 断崖絶壁の海岸に若い女と二人でたたずんでいる。ごう、ごう、と海鳴りが絶え間なく響いている。秋の風が吹き付けるこの場所で、僕は彼女の腰に縄を巻いている。どうしても彼女をおいていくことは出来なかった。それは僕と彼女が不幸だったからではない。僕が彼女を愛していたからだ。

 僕の胸には常に薄い氷がはられていて、誰の言葉も僕の心臓には届かないと思っていた。しかし彼女の言葉と体温は、僕の凍った心臓を温めて全身に血液を巡らせてくれるような感動があった。そして孤独の深淵を彷徨う苦しみを忘れさせてくれた。僕と彼女は来世で結ばれる事を誓った。

 しかし彼女とともに海に飛び降りたその刹那ーー、突然全身から後悔の念が湧き上がった。けれどももう遅い。次第に水面に近づいていく。真っ黒な水面には月の影がぼんやりと浮かんでいた。

 黒い海に沈みながら、余命幾許もなくても生を全うするべきだったと後悔した。そして生命の灯火を宿す彼女までも道づれにしたことを魂の底から後悔した。

 その思いを言葉にすることができないまま、僕と彼女の魂はゆっくりと黒い水の底に向かって沈んでいった。 


〈了〉

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