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小説 弦月4

 離婚した翌月の日曜日の朝、不思議な夢をみた。

 夢から醒めた時、私はうずくような胸の痛みを感じていた。もともとあまり夢を見る方ではない。見たとしても覚えていないことがほとんどだ。けれども今見た夢は、驚くほど色鮮やかにその光景を思い浮かべることが出来た。

 夢の中で私は知らない男と山道を歩いていた。背が高く、ひどく痩せている男だ。男は呼吸が苦しいようで、私は彼を必死に支えながら歩いていた。彼の胸のあたりに私の額が触れていて、彼の肋骨が浮き出ているのを感じ取れた。そして、彼が呼吸をするたびにヒュウヒュウという音が出た。私はその音の響きを彼の胸から直接感じ取ることが出来た。それら全てがとても悲しくて、私はずっと泣いていた。

 変な夢だなと思った。目を覚ましたとき実際に私は泣いていたのだ。男と私はかなり身長差があるように思えたが、それ以外は何も思い出せなかった。それなのに、彼の体のゴツゴツした感触がまだ手のひらに残っていた。そして、彼の苦しそうな呼吸の音が、私に水の恐怖感を思い出させた。私は心底ぞっとした。こんなことは初めてだった。
 枕もとに置いてある時計を見ると、まだ朝の6時だった。寝室の遮光カーテンの隙間から春の優しい光が差し込んで、部屋の中は薄明るかった。もう一度眠ったらもっと嫌な夢を見るに違いない。まだ眠く体に怠さが残っていたが、仕方なく起きることにした。

 今日は高校時代の友人に会う約束をしていた。洗面台で顔を洗い、鏡に映る自分の顔を眺めた。間違いなく私だ。30歳になる、これと言って特徴のないいつもの私だ。何故か少しほっとした。あんな夢はさっさと忘れてしまおう。そう思った。

 私はキッチンに立ち、フライパンで目玉焼きを焼いて、トースターで8枚切りの食パンを1枚焼いた。やかんでお湯を沸かし、濃い紅茶を淹れた。それらを盆にのせ、ダイニングテーブルに腰掛けた。

 離婚から約一ヶ月たち、ようやく色んな事が落ち着いてきた。私の事務手続きはおおむね片付いたし、浩の荷物はほぼなくなった。家具を除けば、男の荷物なんてたいした量ではないのだなと思った。浩は本当に必要なものものだけを持っていったようだ。

 静まりかえっているリビングでひとり朝食を食べながら、こんなに心が休まるのはいつぶりだろうと思った。浩との生活は息苦しかったのだ。息苦しい事に気がつかないふりをして、息苦しいまま一生生きていくしかないと諦めていたのだ。でもこれからは、肺の底まで胸一杯新鮮な空気を吸うことができる。そう思いながら、私はゆっくりと深呼吸をした。

 けれどもそれと同時に、たとえ私が自由になったとしても、私が本当に好きな男は既婚者なので、いずれにせよ自分はどこにも行けないのだという当たり前の事実に気がついたのだった。

 友人とは11時に最寄り駅で待ち合わせをしていた。一緒に昼食をとる約束をしていた。肩まである髪の毛をひとつに束ね、白いシャツを着て濃いブルーのスキニージーンズを履いた。こころなしかスキニージーンズが緩くなっているように感じた。少し痩せたのかもしれない。てゆうか、離婚してさまざまな手続きに追われていたのだから、痩せて当然なのだろうと思った。そして職場の人達に痩せた事を心配されるのだろうな、と思った。もともと油っこい食事を好んで食べないので、いつの間にか痩せていることが今までもよくあった。気がつくとため息が出ていた。

 浩にもらったアクセサリーは全て処分してしまったので、ほとんどそれらしいものを持っていないことに気がついた。仕方なく、結婚する前に自分で買ったルビーのピアスだけをつけることにした。そのルビーは赤というよりはピンクに近い色で、安いものだったが、私はそれをとても気に入っていた。久しぶりにアクセサリーを身につけると、不思議なことに手足を動かすことが億劫ではなくなった。スニーカーで出かけるつもりだったが、パンプスを履いていくことにした。

 これからは、宝石は本当に気に入ったものだけを自分で買おうと思った。そうすれば、一生その宝石を大切に出来る。そう思うと、希望というには頼りなさ過ぎるが、いくぶんか気持ちが明るくなった気がした。私はベージュのスプリングコートを羽織り、パンプスを履いてマンションを出た。

 マンションから駅までは歩いて7分の距離だった。天気が良くて春の風が心地良かった。近くの公園には桜が植えてあり、七分咲きといったところだった。それを見て、ああ、狂いなく季節は巡ってくるのだなとぼんやりと思った。

 正直離婚が自分にとって幸いだったのか禍いだったのかわからない。そういうことは5年とか10年とか経ってみないとわからないものなのだろう。あるいは死ぬまでわからないのかもしれない。でも少なくとも、季節が冬でなくて良かったと思った。体が寒いと、心まで寒くなる気がするから。

 友人の直子とは高校からの付き合いで、近くに住んでいるので時々会って食事をした。直子は独身で、介護老人保健施設で介護士をしていた。気が強く、思ったことをハッキリ言うタイプの女性だったが、陰にこもることがないのでとても付き合いやすかった。

 駅で彼女に会い、オムライスが美味しいと評判の洋食店に入った。私は店のオススメらしい、チーズとデミグラスソースのかかったオムライスを注文した。直子も同じものを注文した。私達の話題は当然私の離婚のことだった。

 オムライスを食べ終わったあとも、会話は続いた。そのあと二人で近くのコーヒーショップへ行き、私はカフェラテを、直子はロイヤルミルクティーを注文した。店内は若い女性やカップルで満席だった。みんな楽しそうに会話を楽しんでいるようだった。

「てゆうか、なんでもっと怒らないの?蹴っ飛ばしてやればよかったのに。あんた絶対におかしいよ。慰謝料だって、もっともらえばよかったんだよ。いつから浮気してたのか本当にわかんないの?」と直子は真剣な表情で訴えた。

「わからない。今二人がどこに住んでるかもわからない。多分、この近くだとは思うんだけど」と私は正直に言った。

「相手の女がどこの誰かもわからないんでしょう?」

「浩と同じ職場の若い子らしいよ。そういえば浩のお母さんが言ってた気がする。水商売の人とかじゃないだけマシなんじゃないかなあ。でも、本当にもう関わりたくなかったんだ。相手の女の事もききたくなかった。私がひかなければ、全員が不幸になるだけで、誰も幸せになれない」

直子はため息をつきながら、「あんた達観してるね。それで本当にいいの?」と心配そうに言った。

「いいも悪いも、どうしようもないでしょう。ひとりになるのは寂しいけど、二人でいても寂しかったし。何より相手に子供が出来たんじゃ仕方がないじゃない。私には子供がいないんだし。中絶でもさせて、相手の女に一生憎まれるのだけは勘弁だよ」

 私はカフェラテをひとくちすすって、目の前にある直子の荒れている手を見つめた。直子は介護士をしていて頻回に手を洗うため、いつ会っても手が荒れていた。

「ただ、転職しようかなとは思ってる。今の職場で、なんとなく気を遣われるのもしんどいし。これからはひとりで生きていかなきゃだし」

 私はそう言って、直子の仕事についてきいてみた。介護職は夜勤もあり、体力的にも厳しいため離職率が高く慢性的な人手不足の業界だということだった。しかし、直子の働いている施設は女性職員がほとんどだが特有の陰湿な人間関係はなく、働きやすいと彼女は言っていた。
 私は介護士の仕事に興味を持ち、仕事内容を詳しく教えてもらうことにした。直子が働く介護老人保健施設「ほほえみ」は、ここからだったら乗り継ぎもなく行ける場所にあった。話をきくうちに、私は直子が働く施設で働いてみるのも悪くないと思っていた。


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