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目からうろこ~わたしは病気を言い訳に人生をかなりつまらなくしていたらしい~

noteには示唆に溢れる文章があちこちに転がっている。
目からうろこが落ちるの思いをすることが多い。

たとえば、写真家の幡野広志さんのこのnote。血液のがんを患いながら、自分らしく生きる決意に満ちて清々しい。

“人には命とおなじぐらいか、もしかしたら命よりも大切なものがある。もちろんそれは人それぞれだけど、自分の人生で何を大切にして生きているかということだ。ぼくにとって人生で大切なことは、自由であることだ。旅にいける自由、好きなものを食べる自由、好きな人と会う自由だ。”

幡野広志『笑顔でバイバイをする』より

わたしも自由は大好きだ。何よりも大切かもしれない。
ただ、わたしの自由のなかに旅はないかな。出無精だからな、、、、

最初はそう思った。でも、

ほんとうにわたしは本来、こどものころからずっと、出無精だったろうか?



青春ハイテンション時代

思い返してみると、出無精だった期間もけっこうあるけれども、反対に出かけたくて出かけたくてウズウズしていた時代だってけっこうあった。
好奇心の塊のような時代。あそこにも行きたい、ここにも行きたい。これもやってみたい、あれもやってみたい、これも、あれも食べてみたい。

そういう時のわたしは、寝ている時間がもったいなかった。寝坊でなかなか起きない友人をうとましく思ったこともある。はやくどこかへ出かけたい。毎日がワクワクに満ちていて、楽しくてしかたなかった。

18歳で上京した直後のわたしがそうだった。毎日毎日充実していて、ホームシックなどというものがあることが信じられなかった。自由だった。徹頭徹尾、自由で全身が満たされていた。

青春という名のハイテンション。ときに暴走もして、失敗もしたが、楽しくて楽しくて仕方ない毎日は2年ほど続いた。
3月に上京し、4月にひょんなことからご縁ができて、5月のGW明けから編集部でのアルバイトが決まった。最初の仕事は、読者から送られてくるハガキアンケートの整理だった。
ハガキ整理の仕事があるのは週1回。大学の講義を受けてから、用事がなくても毎日、編集部に顔を出した。
編集部にいれば、コピーをとりにいったり、資料室に写真を探しに行ったりする用事がある。
「ぷれちゃ~ん(本当はちょっと違うけどね)、これにトレペ(トレーシングペーパー)貼って」
「はーい」
「青焼き、お願い」(当初はコピーじゃなくて、青焼きだった。青く写るコピーみたいなもので、写真の現像液みたな変な匂いがしたっけな)

そんな日々が楽しかった。
しかも、バイト代が破格だった。週刊誌なので、毎週ギャラが出る。最初から週給1万5千円だったんじゃないだろうか。夕方から数時間、編集部にいて月6万! 家庭教師のバイトなんかよりよっぽどワリがよかった。
そして夕食つきだ。編集や記者のみなさんにくっついて、夕食にありつく。しかも、なかなかの高級レストランが担当編集者の行きつけで、シャリアピンステーキなどという田舎の小娘が食べたことのないご馳走が、ほぼ毎日、食べられた。

楽しいわけだよねぇ。寂しいなんて思うわけがない。思うヒマさえない。
そのうち大学でもサークルに参加。編集部でも1歳上の先輩と仲良くなって、いろんなところへ連れて行ってもらった。彼女は東京生まれ東京育ちだったから、田舎娘のわたしに東京とはどんなところなのか手取り足取り教えてくれた。

あのころのわたしの辞書に、疲れる、出無精、病気なんていう言葉はなかった。身体が丈夫なことだけが取り柄だとさえ思っていた。睡眠時間が2~3時間でもへっちゃらだった。

若かった。
若かったから、あれほど元気で自由で、好奇心にあふれ、感受性もあふれそうなほど豊かで、泣いたり笑ったり、なにごとにも前向きに突き進んでいったのだ。



病歴続くよどこまでも

そんなわたしも年をとり、身体のあちこちにガタがき始めた。
最初は盲腸炎。28歳。かかった医者がヤブで、ただの便秘だと放置されたおかげで、盲腸は少々やぶれて腹膜炎を起こし、1カ月入院した。

その後、33歳でいきなり股関節が悪くなって手術。生まれつき骨頭を支える臼蓋という部分が未発達で、足の骨がガタガタぐらつくので痛みが出ることがわかり、半年後、左股関節の回転骨きり術という手術を受けた。
入院1カ月半、退院後も3カ月くらいは両松葉杖が必要で、ステッキで歩けるようになるまで1年近くかかった。

ステッキをつきつき、取材に出られるようになっていた38歳で、バセドウ病を発症。
このときは甲状腺ホルモン出まくりの超ハンテンションで、まだ、ちゃんと治療が終わっていないうちに、両親とイタリア、スイスのツアーに行ったっけ。
バセドウの勢いそのままに、マンションを購入したのもこのときだった。

イケイケ、どんどん。わたしは自由で、病気なんてあっても人生は楽しかった。
生涯の伴侶に出会えるという言い伝えに則って、ローマのトレビの泉に、後ろ向きにコインを投げ込んで帰って来て、最初に出会ったのがKだった。遠い未来にパートナー的存在になるなど、当時はこれっぽっちも思わなかった。人生はやはりわからないものだ。



四十にして惑わず! とはいうけれど

振り返ってみれば、どちらかというと出不精に傾いたのは40歳になってからだろう。年齢的にも落ち着くころといえるかもしれない。
甲状腺ホルモンが出まくったバセドウ病が落ち着くと、わたしの甲状腺ホルモンは枯渇して足りなくなった。薬で補てんしつつ暮らしているけれども、昔のようなイケイケどんどんにはなりにくくなった。
気持ち的にも落ち着いてきた。持ち家をもったことで根無し草だった身の上が安定したようにも思った。まさに四十にして惑わずだ。
自然、出無精に傾いていく。

仕事も、アンカーとしての役目が定着してきて、取材にいかなくても、記者が取材して書いたデータ原稿をもとに、編集者の意図にそった記事(最終原稿)に仕上げていくことが多くなっていた。
編集部に出向いて書く時代もあったが、しだいにFaxのやりとりと電話だけの、いまでいうリモートワークが当たり前になり、さらにFaxはメールに代わっていった。

新人の編集者の顔も知らずに、仕事する。なんていうことも出てきて、わたしは原稿制作マシーンだなぁなどという気分にもなった。
そうこうしているうちにコロナが勃発。編集部は安易に行ってはいけない場所になり、わたしはすっかり家から出ない人になった。

病気も増えた。53歳で1型糖尿病、54歳で胆嚢炎で胆嚢なしの人になり、57歳で右人工股関節。64歳で昔、自分の骨で形成した右の股関節にもガタがきて、両脚人工股関節になった。そして65歳で脳梗塞だ。

もう、そう長くないのかもな。充分、生きたよな。もうやりたいことも特にないし。
いやいや、さすがに母より先にいったら親不孝だろう。またまた何やかやと治療をし、用心したり大事にしたりで、自分の行動を制限しつつ、頑張っていくのかな。頑張らなくちゃいけないのかな。

そんなふうに思っていたところに、

ガツン

ですよ。

病気になったおおくの人が旅行にいきたいと願う。だけど現実的にそれを叶えている人はおそらく少数だ。もしも渡航先で何かあったら…という不安で周囲の人が止めてしまう。(中略)

“まだ削がなくていい自由を、周囲の人の不安や心配を理由に削ぐべきじゃない。病人は周囲の人を安心させるために存在しているわけじゃない。”

幡野広志『笑顔でバイバイをする』より

誰か周りの人に、ではない。
わたしは、自分自身で『まだ削がなくていい自由』を削いでいた。『もしも渡航先で何かあったら』という不安がいっぱいで、一度は行きたかったフランスで働きだした姪のところに遊びに行こうとさえ思えなくなっていた。

腰が痛くなったらそれが渡りに船になって、痛くて動けないからと家にいようとする。熱心に誘いまくってくれるKがいなかったら、軽井沢にも行かなかっただろう。行ったら楽しいのに、実際、楽しかったのに、また次とは思えなかったりもしている。

いったいどうしちゃったんだ、わたしは。
そんな人じゃなかったじゃないか。

目からウロコだった。ほんとうに。
脳梗塞から気持ちはずいぶん上を向いているのだけれど、ときどき落ちてうつむいてしまう。
そんなわたしがまた、カツを入れてもらった。

楽しもう。途中で倒れたっていいじゃないか。なんかカッコイイ。中島みゆきみたいだ。
やらずに後悔するより、やって後悔だ。いや、やってももう後悔なんてしない。
ああ、
人生ってこんなにも楽しかったんだ。



奇しくもわたしの仕事歴も病歴も披露するエッセイになってしまった。次にアップしようと思っている『雑誌報道記者』の前段階のお話にもなったかも。

とはいえただの思い出話。昔の話をグダグダする年寄りにだけはならないと思っていたような気もするけど。
そんな気分になるもんなのね。

写真はおいおい追加で更新していくかも。
表題のtaiinさんの作品、とても美しいので全体を見せたいと思ったけれども、本文中には使えないらしい。残念。

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ぷれこ
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