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人生に迷ったら知覧に行け


ベストセラー作家の永松茂久さんが
「人生に迷ったら知覧に行け」
というタイトルの本を出しているが

人生の生き方やセルフマネジメントをテーマにしている
自分にとって、最近行けてなかったので再訪問して参りました!

知覧とは第二次世界大戦の沖縄戦で
特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をするという特攻隊の出撃地だった場所

ここには
知覧平和記念会館と共に
特攻の母と言われる
鳥濱トメさんが営んでいた
富谷食堂があり
そこの歴史や想いに触れると
自分の生き方や在り方を問われるからこそ
「人生に迷ったら知覧に行け」
というタイトルになる場所


知覧特攻平和会館
平日にも関わらず多くの人が訪れていた
知覧特攻平和会館の隣には護国神社もあり、まずお参りもさせていただく
三角兵舎という、特攻隊員が最後の夜に寝泊まりしていた宿舎のレプリカもある


10数年ぶりの知覧特攻平和会館だったが
たくさんの特攻隊の遺書があり、当時とはまた違う
自分自身への刺さり方があった

特攻隊の方々のメインの年齢は
10代後半から20代前半の若者

そんな若者が
自分の命をささげる覚悟を持った
遺書に
「どうしてこんな言葉を紡げるのか、、、」
と震える

そして、親の立場の目線が加わった今回
こんな遺書を親としての自分がもらったら
どんな気持ちになるのか、、、と思うだけで
涙が出てきた


その後は鳥濱トメさんのひ孫さんである
鳥濱拳太さんの講話を聴かせてもらう

鳥濱トメさんは
昭和4年、27歳で鹿児島県知覧町に「富屋食堂」を開業。
昭和17年に陸軍指定食堂に選ばれ、飛行兵が訪れるようになりました。
特攻隊の基地であった知覧だっため、多くの若い隊員たちが富屋食堂で出撃前の最後の日々を過ごしました。

終戦後、飛行場跡地に棒杭を立てて「これがあの子たちのお墓だよ」と娘たちに宣言、毎日祈りを捧げ続けました。その努力により飛行場跡地に観音が建てられましたが、当初は参拝者も少なかったですが、子供たちに参拝者を見据え、掃除を手渡しながら語り続け、結果として、特攻隊の人を多くの人が知ることになり、現在の知覧という街が出来上がっていったのです。

晩年、脚を痛めたトメは杖をつきながら参拝を続けました。 雨の日も片手に杖、もう片手に供え物を持ち、命懸けで通い続け、まさに特攻の母と世間の人に呼ばれた方でした。

そんな想いをトメさんのお孫さんである明久さんが引継ぎ
明久さんの息子である拳太さんが語り部として現在は引き継いでいる

拳太さん

本当に拳太さんから聞く特攻隊員達との逸話も
涙なしでは聞けない、、、
そして、ただ特別な人ではなく、本当に自分達と変わらない
若者だったことも知りさらに心が震える、、、

本当に自分が生きていることは当たり前じゃないし
この今の日本があるのはこうやって命をかけて日本を守ってくださった
方々のおかげだと心から思いました。


そんな想いを持ち
夕日を見に、特攻隊員が灯台代わりにしたと言われる
開聞岳と夕日を見に

本当に色んなことを考える時間でした、、、

その後、夜は
拳太さんが現在は営んでいる
知覧茶屋で懇親会

平和記念会館の隣に
トメさんの想いを継いだお店
特攻隊員に出したと言われる卵丼 
美味しさはもちろんのこと、想いが伝わり思わず胸が熱くなる

次の日は
拳太さんがガイドをしてもらいながら
三角兵舎跡へ

本当に森の中にある
見つからない場所に立てざる終えなかった、、、

そして、富屋食堂という看板を出した
隊員たちの遺書や想いを感じられる場所へ

知覧特攻平和会館が表の知覧だとすると
こちらは裏の知覧として、より1人1人の
特攻隊員の方々の想いを知れました。
見ているだけで自然と涙が流れてくる、、、

拳太さんと

特攻隊員たちの想いはもちろんのこと
鳥濱トメさんという1人の想いが
特攻隊員の人たちの消えそうな想いと史実を
守ったことに心から震える

その後は万世記念会館へ

綺麗な建物
10代が書いたと思えない文章に心が震える

万世記念会館は
特に少年兵と言われる10代の人たちが飛び立った場所である
より若い世代の人たちの遺書がある

ほがらか隊

上記のほがらか隊の写真は
特攻する2時間前に撮影されたと言われる

17歳の青年たちが
どんな想いをもって
この表情で写真を撮影されたのかは想像ができないが
とにかく心を打たれた、、、

改めて
自分の生き方が問われた2日間

本当に自分の志に生きていきたいと心から思った。

素晴らしい2日間に感謝!!

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