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わたしの哲学時間
初夏にランニングを始めた。
家の前の坂を下って少しだけ走ったら、すぐ目の前に川がある。その川沿いを走るのがいつものルート。
橋を渡って反対側へ、さらに橋を渡って、こっち側に戻ってくる。
一周3kmちょっと。右回りではじめるか、それとも左回りか。ちょっと悩んで走り出す。
いつものお決まり。
朝でも、昼でも、夜でも。いつも誰かが走っていて、どんな人なのか気になってしまう。
土手でサッカーに励む少年たち、後ろから落ち着いた息遣いで私を抜くシニア、飼い主に抱えられて満足げな犬。
すれ違う度に、新鮮な出会いがある。
この場所、走ってる人が多すぎる。
ここに暮らす人たちの情報が、自分の中に入ってきすぎる。彩りがあって、その分データサイズも大きい。
足よりも、頭や目の方がフル稼働だった。パンク状態。
夏を超えて、川沿いを走る機会は減った。
夏は泊まりがけの出張も多かったし、身体的な疲労も確かにあったのだけれど、たぶん理由はそれじゃない。
自分の中に入ってきたものを、まだちゃんと処理できていなかったのだと思う。
能登に行って、震災の跡に触れて、そこに暮らしてきた人の心に触れて、そこでの時間は濃密だった。
たぶんあそこだけ重力が大きいと思う。
帰ってきた自分は、どうにも宙に浮いている気がする。
足のつけ方がわからない?着地点を見定めている?そもそも足をつけるのを拒否している?
どれだろう。全部かも。
一番の目的は体重を落とすことだったけれど、全然クリアできそうにないので、さらなる一歩を踏み出すことにした。わたしの次なる一歩、それは「choco ZAP」。
筋肉もつけたいし、天候を気にせず有酸素運動もできる。
外を走るのが好きだったけれど、これまで避けてきたランニングマシンも結構いい。
淡々と同じ場所を走り続けるだけ。ペースも時間も自分で設定できて、偶然性なんてまるでない。
だから、外からの情報は入ってこない。
ただただ自分の中にある、勝手に頭に浮かんでくるものとの対話の時間が始まる。
処理しきれていなかったものと、もう少し噛み締めていたものと、もう一回思い出して余韻に浸りたいことと。
自分の内側から溢れ出るものを必要以上に難しく考える時間。難しく考えているんじゃなくて、難しく考えてしまうだけ。それがおもしろいんだからそれでいい。
あの人だったらどう考えるだろう。自分との対話に誰かが加わってくることもある。
賑やかな自分の内側。私の後ろで黙々と筋トレするおじ様たちとは対照的だ。
ランニングマシンに乗ると、わたしの中のわたしとの、終わりのない哲学対話が始まる。
内容はほとんど覚えていないけれど、そのぐらいがきっとちょうどいい。
身体が軽くなるといいな(物理的に)