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哲学書を読む理由
私はビジネス領域に生きる実務家なのだが、哲学書や思想書と言われる本をよく読む。そういった本を読む理由を一言で表せば、「他人の思考に関心があるから」である。
思考の定義
ここでいう「思考」とは、とある人が「どのように世界を切り取り、認識しているか」のことを指している。ユクスキュルが提唱した環世界(かんせかい、Umwelt)に近い考え方だ。
この定義に従うと、単に自分の頭に浮かんだことを書きつけたものは思考ではない。夏目漱石のいう「自己本位」、つまり自分なりに組み上げた独自のパースペクティブから世界や対象を見て、意見を構築することで初めて「思考」が生まれる。漱石の「自己本位」については、「私の個人主義」や「読書論」で取り上げたので、関心があればそちらの記事もご覧いただきたい。
哲学は「自己本位」に出会いやすい
哲学書が必ず自己本位で書かれているわけではない。しかし哲学は前提を置かずに根源的なテーマを扱う点において、自己本位な意見に出会いやすい。
もちろん、他の領域においても自己本位のスタンスで書かれている本は多く存在する。それはその領域の発端をつくった人物によって書かれている本であったり、抜本的かつ批判的に既存領域を考え、大きくその領域を推し進めた人によって書かれた本であることが多い。そしてそう言った本は読み継がれて、多くの場合「古典」として扱われている。
自己本位の意見に出会うとき、情報の蓄積ではなく著者の思考と自分の思考を突き合わせることで思考のアップデートが起きる。この思考のアップデートは、読書の大きな効用として以前の記事で取り上げ説明した。
自分の「自己本位」を鍛えると強力な武器になる
他者の「自己本位」に触れ、本気で格闘し、思考のアップデートを続けていると、自分の「自己本位」も鍛えられる。
自己本位で周囲のものを観察し意見を構築する力は、非常に強力な武器になる。実社会においては、常に不確実性をはらむ将来に向けて行動していく必要があり、完全な未来予測ができる人は存在しない。
故に、「よくわからない中で誰の意見を信じるか」という勝負になる。自己本位に考え、意見を出す人の声に多くの人は説得され、信じてみようと思う。他人本位のスタンスで、誰かからの受け売りだけで話が構成されている人の声は、他人の耳と心には届かない。
まとめ
まとめると、私が哲学書を読む理由は、個人の関心事が満たされるコンテンツでもあり、かつ実社会を生き抜くための強力な武器を手に入れる手段でもあるからだ。下手なビジネス書を読むくらいなら、哲学書と格闘することをおすすめしたい。