この世のルール設定を本気で考察してみた⑧
ミクロ~人間~天体に対し、意識空間仮説を用いたプロセスの妄想
人間の後半。
身体とも全体性側では繋がっている為、身体を酷使して自我が弱まるような状態や、過集中したりすると身体のどこかと同化したり、認識が拡がったりする感覚を持つこともあるのではないでしょうか。
そういった特性を引き出そうとする行いが、厳しい修行などなのかなと思います。
そして一般的に考えられている終焉のイメージとは違い、死を迎えた後は、空間自体が私本体の一部である為、身体を失っても(呼吸での連結が途絶えても)「私」は無くなったり消え去ったりするのは無いと考えます。
なぜなら対称性が崩れるから。
私という個を作るために蒔いてきた情報場にある副産物がある限り、それを放置して「私」という位置として閉じることが出来ないという事です。
身体で感じる感覚というリアルな没頭感が無くなるので、個体性と全体性と情報場を簡単に見渡せる認識の広がりを経験するかもしれないですし、それこそまだ生きているつもりで空間だけの状態で存在(幽霊?)し続けるのかもしれないですが、何にせよ、「私」に関する情報を±0に閉じていかないと個体性は消えれないと思います。
もしかしたら、情報を次回に持ち越すのが輪廻転生のようなものなのかもしれないですね…
ちなみに1日の中での対称で考えると、私たちが起きていると思っている時間が個体性の活動ターンで、寝ている時が全体性の活動ターンなのではないかと想像してみます。
寝ている時も全体に属した私が出来事を体験をし、情報場の消化を行っている可能性があるのではないかというのと、まだ出現していない出来事で、有り得る可能性を情報場の観察できる人は、予知夢的なのを見るのではないかと思います。
夢の中で自分が体験してるパターンで悪夢の場合、それが個の世界に送り出される前に情報を消費してくれてるのかもしれないので、悪夢は吉夢というのは本当かもしれない。
夢を見る際に、視点って自分の身体の目線の時と、カメラの様な視点で自分も全部見えてる場合とありませんか??
その違いが何なのかが気になります。
私の場合、俯瞰視点の時は私じゃない人格のように見え、目線視点の時は没入感あって臨場感あります。
でも、どちらの目線の場合でも感情はかなり希薄で、起きた時に夢の中で感じたであろう感情を一気に味わってるんです。
夢って謎が多くて探りがいがあって面白いですね。
全体性側の自分からしたら、起きてる時が夢の中みたいな感覚なのかもしれないと思うと、リアルって何って不思議な気持ちになります。
人に関しての考察はまだまだ詰めたい所が沢山なのですが、ひとまずここまでとします。
次回はマクロの場合にいきたいと思います。
存在を作るルールは同じです。