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心化粧20 —— 生かされた命と、生きる命



「揺らぐ世界に楔を打つために」

生きるとは何か?生かされるとは何か?

一つ、考えてみたいことがある。

生きることと、生かされることは何が違うのか?

中学生の頃、教師は言った。
「あなたたちは生かされた命なんだ」と。

生かされた命。

私は、自分を謙虚に見つめ直すとき、
「ああ、自分は生かされた命なんだ」と思うことがある。

だが、同時に私は、
能動的な主体として生きている。

つまり、生かされる対象は「私」だが、
「誰によって」生かされているのか?

その答えを突き止めることで初めて、
この疑問の本質が明らかになるのかもしれない。

「生かされている」という言葉の向こう側

教師が言った「生かされた命」という言葉は、
震災を通して語られたものだった。

「誰かが命を失ったから、私たちは生きている」

だからこそ、私は「生かされている」。

しかし、これは**「選別」ではないのか?
私は、何かによって選ばれた人間**なのか?
それとも、偶然、生を奪われなかっただけの存在なのか?

いずれにせよ、何かが私を選別し、
私は生かされているのだ。

だとすれば、その「何か」は、一体何なのか?

神は選別するのか?

もし、これが神の意志であるとしたら?
神は、私たちを選別するのか?

神は、時に暴君のように振る舞う。

ノアの箱舟で生かしたのは、ノアの家族だけだった。
なぜノアだけを生かしたのか?

神を知ろうとした人間たちが築いたバベルの塔を崩し、
忠誠を誓ったアブラハムに対しては、
息子を犠牲に捧げるよう命じた。

一体、何がしたいんだ?

私は問いたい。
なぜ、生かすのか。
なぜ、生かされない人間が存在するのか。
なぜ、生かされた人間を幸福に導いてくれないのか。

この不条理をどう解釈すればいいのか?

幸福とは何か?

この問いを突き詰めるならば、
私は一つの答えに行き着く。

「幸福は、常に目の前にある」

そしてまた、
「幸福は、常しえには続かない」

生命は、自分の手によって終わらせることもできる。
悲しみは、常に一時的なものだ。
そして、嬉しさもまた、永遠とは言い難い。

この儚さこそが、人生の本質なのか?

真実とは何か?

この圧倒的な矛盾の中で、
私が問いたいのは、ただ一つ。

「真実とは何か?」

「真実はいつも一つ」
そう言う人がいる。

だが、本当にそうだろうか?
真実は、解釈である。

解釈は、常に書き換えられる。

事実は普遍だが、
真実は変わる。
人間の解釈によって。

幸福の瞬間は書き換えられる

私が最も幸福だった瞬間を思い出してみる。

それは、あの受験戦争を乗り越えた時だった。
私は、二度目の受験戦争の勝利者となった。
あの瞬間、私は間違いなく幸福だった。

だが、その幸福は、常しえには続かなかった。

物語には必ず終わりがある。
だが、人生は終わらない。
今という存在がある限り、永遠に続く。

だから、ハッピーエンドなど存在しない。

もし、莫大な地位と富と名声を得た人がいたとする。
だが、その人が死の直前、
「あの時は良かった」と過去を振り返るなら?

その人の「幸福」は、もはや過去にしか存在しない。
過去は書き換えられ、
今が不幸であると認識された瞬間、彼はバッドエンドを迎えるのだ。

「永遠の幸福」を求めて

この揺らぎやすい現実に対して、
私は楔を打ちたい。

永遠の幸福を得るために。

もし、人生が永劫回帰であったとしても、
それが幸福な回帰であるならば、
私は何度でもそれを受け入れる。

しかし、現実はそうではない。

人生の一分一秒、
あらゆるものが移ろい変わる。

なぜ、世界は揺らぐのか?

なぜ、人の心は揺れ動くのか?
なぜ、社会は移ろうのか?
なぜ、人の見る目は変わり続けるのか?

なぜ、何一つとして普遍ではないのか?

この世界が、普遍でないなら、
生かされた意味はどこにあるのか?

「幸福の絶頂で終われたなら」

もし、ある人が、
幸福の絶頂の瞬間に生涯を閉じたなら?

それは、ハッピーエンドではないか?

幸せの絶頂の瞬間に終わることほど、素晴らしいものはない。

「揺らぎを止める方法を求めて」

道を見つけたい。
この世界に揺らがない道があるのならば。

この、移ろいやすい現実の中で、
私は何によって心を固定することができるのか?

それは信仰なのか?
それとも修行なのか?

私はまだ、
この揺らぐ心を抑える手段を見つけることができていない。

だが、それを求めることが、
「生かされた」ではなく「生きる」ために必要なのではないか?

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