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1064_Alexis French「Moments」
「まず、釈迦に説法だとは思いますが、働くことへの考え方が、我々の世代と若手で明らかに変わってきています。もう、今までのやり方が通用しない。それは私も肌感触で感じています」
「やはり、そうですよね。私もNYから日本に帰って自分が浦島太郎になっていたということを痛感しました。コロナ禍を経て、明らかに空気感が変わっている」
俺と彼は、昔と今じゃ全く違う立場だというのに、真摯に相手と向き合って話そうとする姿勢がある。やはり、日川さんは人として信頼できる人物であることに違いなかった。だからこそ、言えることは言っておきたかった。それが俺がこの組織に絶望してもなお、自分にできるほんの僅かなばかりの会社の貢献となるのかもしれない。
「なんというか、コミニュケーションひとつ取っても、認知にズレがあるというのでしょうか。私が歳を取ったのかもしれませんが、会社という共通の文脈や基盤があったから、通じていたことがあったんだなと痛感しました」
「なるほど」
「これはNYでも感じたことではあるんですよ。僕ら、日本の会社の中であまりに空気を読みすぎていたなと、それで上司の意図を体して、うまく社内で立ち回ることばかりに自分のエネルギーを多く割いていたんだと」
「そうです、俺も日川さんもね。大きな組織だからこれも仕方ないことだと、よしとしてきた。だけど、今は違う。僕らの世代にあった「ある程度自分を犠牲にしてでも、一生懸命、会社に尽くして出世しよう」という大きなストーリーはもうこれっぽっちも存在していない」
「存在しないですか?」
「ええ、不都合で残酷な真実です。我々にとっては受け入れがたくとも、彼らにとってはそれが当たり前なんです。我々は、忽然と消えてしまった巨人の足跡を追っているが、彼らはそうではない。巨人の跡は追わず、自分たちの道を行こうとしています」
彼と話しながら、ふと、最近読んだカズオ・イシグロの小説のストーリーを思い出した。古いイギリスの地でサクソン人とブリトン人の民族間の血みどろの争いの歴史があり、それぞれの民族のアイデンティティへの固執が存在していた。だが、やがて長い時のなかで、その忌むべき残酷な所業は人々の頭の中から消えていき、忘却の彼方で失われていたった。
それは人が新たな道を行くために、古きものを「忘れる」というメカニズムがあったからだ。スクラップアンドビルド、日本人が好きな言葉でもある。
日本人は、習性として内部で煮詰まるとどうしようもない人間だが、いかんともしがたい外圧があると、それぞれの頭の中の既存のシステムをなかったものとして「都合よく」書き換えてしまう習性がある。
明治維新しかり、戦後復興しかり、これまで自分たちが必死になってしがみついていたものでも、右に倣えで、それこそなんの気兼ねなくとっぱらってしまう。
法律の解釈も社会情勢や世論の変化で、最高裁で新たな判決が出るとそれがスタンダードとして取って代わる、そもそも民法など明治に作られたものを起源としており、社会構造からなにから変わっているのだから、前提からおかしなものであると感じていた。
自ら必死になってしがみついているものがだんだんと変容していった結果、ある日突然それが眼の前からパッと消えてしまったときに、どうすることもできなくなってしまう。大手だからと入った会社が倒産して、露頭に迷う中年社員の姿がそれに重なる。
「若手はコロナ禍で明らかに世の中が変わっていくんだと実感した。が、結局、古くて図体だけがデカい巨人のような会社や組織は、まったく変わることができていない。だから、絶望して、さっさと見限って出ていく」
「そうなんでしょうね」
「辞める奴は、本当に何も言わずにスッと消えていってしまうんですよ、優秀な奴ほどね。あ、こいつ見込みがあるなと思うと、同時にこれはマズいなと思います」
「なんでですか」
「たぶん、優秀だからすぐに気づいてしまうんだろうなと。自分がこの会社にいるべき人間じゃないってことにね。びっくりします。私も部下を説得することは、もう諦めています。もうここらへんが頃合いだと思ったら、さっさとこんな組織は離れていったほうがいいってね」
「そんなこと言われると、うちの人繰りがますます困りますよ」
「仕方ないんです。今じゃ、少子高齢化からくる人手不足で、土方や牛丼屋が廃業せざるを得ない時代です。若い子は上司の許可が得られなくてテレワークできないよりは、自分の好きな働き方を選択できるほうがいいに決まっている。いいですか、我々の会社は若い人から選ばれる側ではないんです。お前の代わりはいくらでいるっていってた会社の時代は終わった」
「耳が痛いですね。人事を司る立場からすれば」
「だから、俺みたいな、もうすでに既存のレールを外れた人間にも企画室に戻って欲しいだなんて、お声がかかるんでしょ。今、社内の台所事情は火の車だって。誰が見てもピンときますよ。年がら年中会社のHPのサイトトップで目立つ採用の広告打ってるし。転職サイトでも、いつまでも募集中だと、目立つんです。ああ、どうもこの会社には人が集まらないんだな、って察しがついちゃう」
「そうでしたか。よく、転職サイト見られるんですか」
「法務に移った時には、毎日、見漁ってましたがね。実際に面接も受けたし、オファーも受けましたが、結局今の今まで踏ん切りはつかなかったです。こんなこと統括補佐に言うべきことではないと思いますがね。日川さんだから、話すんです」
「ええ、わかっています」
「上が腐ってると、下からどれだけボトムアップしようが無駄です。率直にどう思われますか、今の上の連中を見て」
「それを、私に聞きますか」
「ここまで私に話させといて、ここは聞かざるを得ないでしょう」
「正直に言います。上は、下の現状はまったく見えてはいません」
「やってる感だけは出しますけどね、社長室ブログ更新しているでしょ。私も毎回更新しているたびに見ていますよ。私と同様、皆が冷めた目で眺めていますがね。正直、裸の王様なんでね」
「それは、まあ」
「少なくとも、私は社員のためにこんなに尽くしているとか、会社のためにこんな良くしているんだなんて、トップが積極的に発信して言うべきことじゃない。だって、若い人とはそもそもの文脈が違うんですから」
「それは、わかります。あのブログに感じる違和感というのも」
「社長室の秘書連中に聞いたら、ブログの社内アクセス数の数字をいつも気にしているらしいです」
「もう、なんと言ったらいいかわかりませんね」
「とりあえず、長々と話すのも、もうういいでしょう、私の意思は変わりません」
「それは、メールでいただいた「退職も視野にある」ということも含めてですか」
「はい、そのとおりです。今、実家に母親一人なんですよ。だんだん目が見えなくなってきて、そうなると車にも乗れなくて買い物や病院に通ったりの日常生活を送るのも難しくなる。だから、東京を離れて実家に帰ろうと思うんです」
「ご家族もいるでしょう」
「妻にはもう話しています。娘も高校なんでね、親がいないほうが東京でうまくやっていけるでしょう。あとはそちら会社さんのご都合にあわせて、退職日は調整しますし、きちんと後任を立てたうえで、晴れて私はお役御免というわけです」
「ご実家でなにをされるんですか」
「正直、決めていません。ただ、親父の残してくれた畑や田んぼが荒れ果ててて、一からやり直してみようと思っています。今はそんなことしか、思いつかないですね」
「わかりました。それであれば、私からはなにも申し上げるつもりはありません」
「ありがとう、日川さん。最後にあなたとお話できてよかった」
「それは、私の方こそです。あなたのような人材を失うのは社の損失です。でもそれにまったく気づいていない人たちがいる。少なくとも、私はあなたともう一度昔みたいにお仕事がしたかった」
「懐かしいですね。本当に。月並みな言い方かもしれませんが、企画室での日々は私の青春でした」
「ええ、本当に」
私は窓から散りゆく桜の花々を遠く眺めていた。そして真新しいスーツに身を包んだ新入社員たちが連れ立って歩く姿が眩しく見えた。