022_THA BLUE HERB『SELL OUR SOUL 』
母に薦められて、少し家から離れた隣町の寺にやってきた。朝7時からの座禅会。眠い目を擦りながら、電車に乗り、歩いて10分ほどでその寺にやってきた。「頴林寺」、読みかたは「えいりんじ」かな、「頴」があまり使わない漢字だから、正直読み方が合っているのかわからない。
自分は現在、別に何か人生に行き詰まっているわけではない。なぜ母は俺にここに行くことを勧めたのだろうか。父母ともに信心深く、物静かで聡明であまり子である俺に小言を言うタイプではない。「親という漢字は木の上に立って見る」と書く。常に両親は自分のことを温かい目で見守ってきてくれた。
一つ気になることといえば、恋人のユキコとの関係かもしれない。これまでなんとなく付き合っているが、将来、彼女と結婚をして自分が家庭を持つということを真剣に考えることができるか、正直自分でもわからないところがある。この前、実家にユキコを連れてきて、親に紹介した時もそう思った。
ユキコはいろんなモノを欲しがる。ブランド物から、ディズニーグッズやネイル用品。自分もしょっちゅう、彼女の買い物に付き合わされるが、似たようなモノをすでに俺からプレゼントしてあげているのに、また違うものを欲しがることも度々ある。「だって、だって欲しいんだもん。」彼女はふくれたような仕草を見せるたび、最初は可愛らしいと思っていた自分も、段々と正直うんざりしはじめてきているのだった。
そういった彼女の「求めたがり」というものは、彼女の生い立ちにその原因があるような気がしてならない。彼女の母親には俺も一度会ったことがあるのだが、正直違和感しかなかった。彼女は母子家庭で育ったのだが、母親がその時付き合っていた男のところに行くたびに、彼女は親戚などに預けられ、その度、彼女は疎んじられる目で見られていたという話を聞いたことがある。そして、父親は何かの罪で捕まって顔を見たことがない、とも言っていた。
仕事が長引いて残業で疲れ切った時に、ユキコから山のようにLineの通知が来ていると、辟易する自分がいる。
「何してたの?」「返信遅くね」「仕事とか言って、どっか別の女のとこなんでしょ?」「私のことなんて、どうだっていいって思ってるっしょ?」
なぜなんだろう。人生でこれまで一度も、ああいった女性に関わってきたことはなかった。「常に求めている人」というものに、最初は免疫もないためか物珍しさを感じていたが、幼馴染の省吾に話すと「悪いけど、正直、地雷だと思う」と率直に返された。「その娘、お前のエネルギーを吸っているんだよ。そういうのエネルギーバンパイアとかTAKERって言うの、知らない?たぶん、その娘が心から満足することはないよ」言い返せない。
座禅会の後は、法話もあるという。流石に坊さんの話は退屈しそうだ。ユキコに引っ張り回されるディズニーランドとかに比べて、別にこういう場所が嫌いだということはない。こうやって、お坊さんの法話というのをじっくり聞く機会というのは今まで経験したことはなかった。
お話をされるのは、若いお坊さんで、非常に柔和な話し方をされる。もしかしたら、俺とあまり歳が変わらないかもしれない。偉そうだとか、上から目線とかそういう風に感じられる部分は全くない。見事な日本庭園を見ながら、法話はゆったりとはじまった。
「人間は矛盾を抱えた生き物です。人間以外の生物の行動原理は一貫していますね。本能に赴くまま、生きるために多種を殺し喰らい眠り、そして子孫を残すことです。しかし、人間は理性というものを持ってしまった。これが本能との間で乖離を起こすことになります」
「真実を求め、嘘をつき、理想を高く掲げ、現実にこき下ろされ、人を愛し人を生み、人を憎んで人を殺す。何のために生きる?人のため?金のため?自分のため?
じゃあ、死んだらどうなるんでしょう?」
「人はそんな理性と本能という欲望の間で煩悶を繰り返し、現実に疲弊して自らの弱さを認めたときに、人は何者かの強い言葉を求めます。何かの後押しがほしくて、自分を奮い立たせるために、強い動機の発生源を、ゆるぎない「言葉」に求めるのです。人は弱く脆く、何かにすがりつかなければ生きてはいけないのです」
「宗教は人の弱さを認め絶対的な存在による救いの教義を説きますね。私は仏門に帰依した身ですが、仏教も仏様の言葉を伝えるためにあります。翻って、科学は人の不完全性を補うために人の手の加わらない客観的なデータを出します。そして歌手やアーティストなんか、ただ自分の歌を創作物に詰め込んで世の中に対して、主張をしますね」
「こういうように人が何かにすがりつきたくなることに対して、一つ、仏様がおっしゃた言葉があります。「実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を撹乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ一人歩め。」つまり、人が、人生に迷ったり悩んだり、人を愛したり憎んだり、好きになったり嫌ったりするということは、それすなわち、人がこうしたい、ああしたいという一つの「欲望」を全ての出発点にしているから、生じることなんですね。その欲望に彩られたものというのは、すべてが非常に魅力的に見え、人の心は大きくかき乱します。」
「欲望があるからこそ、人は悩み苦しむ。皆さんもこんな経験はないですか?隣の奥さんが綺麗な服を着ている、大企業に入った同級生がカッコいい外車に乗っている、近所のお金持ちのお子さんは有名な学校に入った。これを聞いて、ああ私もそうしたい、これをやりたい、これが欲しい、となるでしょう。だけど、簡単には手に入らない。手に入れたと思ったら、またさらに欲しいものが出てくる。そして苦しむ。」
「人は孤独です。あなたはご両親から生まれてきたとしても、最後はたった一人で死んでいかなればいけない。いくらお金や家や資産を持っていても、死ぬ時には持っていけません。なのに、こういった人が生き死にで直面する孤独というものに耐えきれず、物や人や自分以外の何かに囲われて生きていたいという思いで、様々な欲を追いかけることは、実は苦しみを追いかけることなのです。追えば追うほど増える欲は、喉が渇いたら塩水を飲むようなことなのですね。塩水は飲めば飲むほど喉が渇いてしまう。このような道は間違いなのです。」
「ではどのような道を歩むべきなのでしょうか。仏様はただ、「孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。」と仰っています。静かにまっすぐに、ただ前を向いて歩み続ける犀の角や林の中の象のように、巷に溢れる俗世間の欲望などに振り回されることなく、自分の歩むべき正しい道をただ孤独に歩みなさいと諭しています。サイの角のようにただ一人歩め、と」
「サイの角のようにただ一人歩め、サイの角のようにただ一人歩め、サイの角のようにただ一人歩め。」法話が終わった後も、俺は呪文のように繰り返した。なんて静かで力強い言葉だろうか。
そうだ、ユキコは、正しい道をたった一人で、歩むことはできないのだ。何より孤独と向き合う勇気がないから。そして甘美で色とりどりの欲望に身をやつし、永遠に満足することはないのだろう。
俺はお寺から帰る途中で、そう得心して、携帯電話を取り出した。