
002_Men I Trust 「Oncle Jazz」
ずっと晴れの天気だけは続いているんだけど、なぜか気分は晴れないままだった。
やっぱり先週、彼女に言われたことが、ずっと胸の中にささって棘が外れないようだった。
どうにもならない気持ちのままで、マスクを付けて無言の人が行き交う中で、一人で渋谷をブラついていた。
このまま、これをそのままにしてもどうにもなるわけでもない。勝手にまた彼女が心変わりのメールをしてきてくる可能性は万に一つもないのだ。
僕は、人の全く入っていない量はやたら多いパスタチェーンのお店に入って、カルボナーラと安いグラスワインを頼んだ。
腹は減っていない。喉だけは乾いていた。客は自分以外に、本を読んでいる大学生と、やたらうんうん唸っているサラリーマン風の男性が一人づつ。
あの時、彼女は唐突に腕を絡ませてきて、覗き込むような目つきで僕を見た。猫のような仕草だ。
ふざけて猫の真似をすることはあった。そんな彼女の一挙手一投足を頭の中で思い描いて、蜃気楼のように目の前に浮かび上がらせては消えていくようだ。
パスタは頼んだのに、来ない。厨房が忙しい、といった様子はない。当たり前だ。客は僕を入れて3人しかいないのだ。
貴重な大学生の週末をこんな感じで潰してしまっていいんだろうか。「時間を無駄にするな」と人生の先輩方は言うだろうが、本当に時間を有意義に使えている(と感じている)人間はこの世の中に何人いるんだろう。
唐突に最近、授業で出た統計学の考え方を応用してみたくなった。と言っても、ハムスターみたいにカリカリ動く人と、象みたいにゆったり動く人とでは、時間の使い方も違うだろうに。とりあえず、僕も昨晩は高校の時の同級生とオンラインの麻雀で深夜まで遊んだ後、今朝も朝を過ぎて11時まで惰眠を貪っていた限りだ。
彼女はいつもふんわりと舞を舞っているかのように、僕に近づいてきて、「あの先生、先週と言っていること違うよね」とか、「いつも使っているシャンプーを変えたらなんか髪の調子が悪いの」とか、まあ、なんのことはないようなことを言って、また離れる。
いつもはそれで終わりなのに、先週だけはどこか様子は違った。あまり表情を変えない、捉え所のないところが彼女の特徴?と言ってはなんだけど、服のセンスだけは必ずどこかに尖ったアクセントを入れていた。
僕がゼミで彼女と喋るきっかけとなったのも彼女がJoy Divisionの「Unknown Plessure」のTシャツを着ていたからだ。
「その、Tシャツ、あれだよね?」「え」「いや、あのバンドの」「何、バンドの?」「Joy Divisionのジャケのだよね?」「は?ジャケ?」
どうやら彼女はそれがなんのTシャツか知らず、古着屋で見つけてかっこいいから買っただけだそうだ。まあ、大体がそんなもんだろう。そういう会話で盛り上がるわけもなく、あまり表情を変えない彼女が宇宙人を見るように目を見開きながら、ぽつりと言う。
「へー、そういうのなんだ。詳しいの?」「まあ少し」「じゃあ、おすすめの教えて」
そう言うやりとりが続くようになって、たまにCDを貸し合うようになった。僕はあんまりマニアックになり過ぎないようなただどこかで聴いたことがあるような曲が入っているアルバムをチョイスして彼女に渡したりしていたが、「よくわかんない」と言われるのがオチだ。
逆に彼女の貸してくれるものは、やたら激しかったり、ベタな恋愛調だったり、ジャンルがまちまちだ。「どういう基準で選んでいるの?」「いや、私あんまり音楽と詳しくないし、よくわかんないから。適当に店で視聴して適当に選んでいるの。」ネットとかレビューで散々調べてから買う僕とは大違いだ。不思議だが、それでもそれで彼女は音楽を楽しんでいるようなのは間違いないからだ。
「これいいね。このOncle Jazz の「Men I trust」、て言うの?ゆったりしてて、あとすごくセンス良くて」彼女の貸してくれたアルバムの中でこれだけどこか毛色が違った。こういうのも聞くんだな。
「そう?」「うん、そうセンスがいいと思う。」「ていうか、センスいいとか、センス悪いとか、誰が決めてるの?」「うーん、いいとは思うんだよね。例えばさ、森の中で不思議な動物を追いながら彷徨っているというか」「君ってさ、自分で絶対センスいいって思っているわけだよね。そう言うこと言うってことはさ」
なんか彼女がいつもと様子というか気配が違う。猫が逆毛を立てて、爪を出している気がする。あれ、そんな気を悪くさせるようなこと言ったか??正解がわからない。単に機嫌が悪いだけなのかな。
「薄っぺらい、よね」「え」「なんか音楽でこうああだこうだ言うのって」「うん、なんか、やっぱり気持ち悪い」「気持ち悪い?」
なんなんだ、なんで気持ち悪いんだ。急にそんなこと言われても、今まで一緒に楽しんできたと思っていたのに、二人とも実は違う音楽を聴いていたのか?
「もういいから。こういうの」「いいって?」「音楽、貸さなくていいから」「あ、そうなんだ」
そこから今まで、僕は奈落の底に沈んだままだ。ああ、まったく。なんでこうなるんだ。どうしたらいいんだろう。