074_BECK「Mellow Gold」
俺は早足で法人営業部へ足を向ける。昼休みで外へランチへ向かう女性たちを尻目に、俺は部屋にいた同期の柊を呼び出した。柊は何か後輩と話していたようだが、構わず俺は話しかけた。
「ちょっといいか」
柊は俺に顔を向けて、俺の目を見ると尋常ならざる何かを察したようだ。俺と柊の間に流れる空気を読んだのか、その後輩も軽く会釈してスッと後ろに下がった。オフィスの部屋の前の廊下で、二人で立ち話をする格好になった。しかし、話す内容については、到底立ち話で済むような簡単なものではなかった。
「お前、あのニューヨークのマーケ部のマネージャーのポスト行くんだってな。今日、辞令見たよ」
「ああ、そうだよ。知ってたのか」
柊のさも当然そうな様子を見て、俺は目を見開いた。こいつ、何を抜け抜けと。「そうか、だけどなあ、俺があのポストに死ぬほど行きたかったこと、お前も知ってんだろ。あそこ就くために俺この会社に入ったようなもんだって、俺、あれほど」
俺は今にも掴み掛かろうとせんばかりの勢いで、顔と顔を近づけて柊に詰め寄った。憤懣やるかたない俺の形相を察してか、様子を少し伺いながらも、顔見知りの後輩の女の子が小走りで俺たちの後ろを逃げるように駆けていく。殺風景だが清潔なこのオフィスの廊下は、まるで柊と俺は対決するための烈風吹きすさぶ荒野の決闘場となっていた。
「わかってるよ、お前がずっと希望していたのは。だけどな、俺もずっとそう思ってたんだよ、おまえよりも、ずっと強く」
柊は吐き捨てるようにいった。真面目で実直そうなシルバーフレームのメガネの奥に、固く研ぎ澄まされた業物の刀のような意思が込められている。柊がここまで感情を露わにした様子もはじめて見た気がする。俺はまるで抜身の刃で突然斬られたような気がして、ゾクっとした。
柊は同期の中でも、不言実行、何も言わずとも自分のやるべきことについては、将棋の歩の駒を進めるがごとく着実にやる男だった。俺はこいつの仕事ぶりは確かにすごいと思うし、何よりその先を見通す確かな先見性というものには舌を巻いていた。なんでもこなせるだろうとは思っていたし、こいつならあのポストにも相応しいということはわかる。だが、今回だけはそれを遠慮して欲しかった。
わかっている、お前ができるのは。だがな、この仕事だけは俺にくれ、なあ、くれよ、なんで取っちまうんだ。俺はこれが、これが今までやりたかったのに。ずっと俺は周囲にそう公言してきたし、上司も人事も同期のみんなも知っていたのに。それをなんだ、こいつ、全部知りながら、抜け駆けした。俺はどうにも言葉にならない怒りが込み上がる。そして、同期の中で柊をまったくのノーマークにして信じ切っていた自分の不甲斐なさにも心底怒りが沸いた。
「ああー、くそ、なんなんだよ、じゃあ言えよ、お前、それ」
「言おうが言わまいが、別にお前には関係ないだろ。誰かがどのみちそこのポストに就くんだ、別に俺たちが決めることじゃない、上が決めることだ。それだけだろ」
「チッ、お前は卑怯だ。俺がめちゃくちゃそこに希望しているの知ってて、なんにも言わずに抜け駆けして、俺の仕事を掠め取りやがって、裏切りもんだよ、お前は。クソが!」
俺は感情的に壁を叩いて、柊をこれでもかとばかりに睨みつける。横を通りかかった同僚らも、壁を叩いた音に驚いて何事かという顔をする。しばらく、俺と柊は向かい合ったまま、二人とも微動だにしない。
「別にお前にどう思われようが俺は構わない。俺は俺の仕事をするだけだ」
「勝手にしろ!」
俺はそう吐き捨てて、そこから後ろを振り返らずにポケットに手を突っ込んで大股で歩き出した。それは柊との決別を表していた。俺はどうしても柊を許せなかった。確かに、俺でなければ、それが俺以外の誰かがニューヨークに行くのだってことは頭では理解できる。だが、それが柊になるのだけは許せなかった。信じていたのに。あいつのことを信用しているからこそ、余計に自分が裏切られた気がしたのだ。そう思い込んでいた。
採用当初の2年目は、俺と柊ともう一人の同期である大政の3人が同じ部署だった。そこは社内でも一二を争うくらい忙しい部署で、散々下っ端としてこき使われて、3人とも馬車馬のごとく働きまくった。ただ、そこででかい案件もはじめてこなせるようになってきて、大きなやりがいもあった。俺は思い込んだら一直線、柊はまあ昔からああいう奴だったが、対照的に大政はすごく温厚で人当たりが良い。
3人はタイプも違ったが、時に反目しつつもそれぞれがお互いを補い合い、不思議とウマがあった。いつも3人で昼飯を食ったり、大政の狭い家で酒を飲んで、あれがダメだ、ここが悪いだなんて、上司や先輩の悪口を言い合って、俺がこの会社を変えてやるんだと豪語していた。そのために、俺はあの憧れのニューヨークのポストに絶対に就いてやる、そこで思い切り自分の仕事をやりたいんだと、語った。
柊も大政も、いつもずっと俺の話を聞いていた。てっきり、俺のことを応援してくれると思っていた。心を許していたからこそ、俺は柊の裏切りが許せなかった。だが、厳密にいうと、俺はあいつに裏切られたわけではない。柊もずっと俺と同じ望みを持っていて、それを俺に言わなかっただけだ。それは頭でわかっている。
自分のオフィスの部屋に戻った俺は、まだ怒りがおさまらなかった。どうにも仕事をする気にならない。虚しい気持ちで椅子に座っていた俺に、不意に電話のベルが鳴る。見覚えのある内線番号だった。
「はい、もしもし、第2営業部ですが」
俺は半ばふて腐れた様子で電話を取る。
「俺だ、大政だ」
「はあ、なんだ、お前か」
「悪かったな、俺で。聞いたよ、柊と派手にやり合ったらしいな。部のみんなに見られたらしいぞ」
「別に殴り合いの喧嘩をしたわけじゃない」
俺はため息をついた。大政の声は柔らかい。俺と柊の話を聞いて、時を置かずにすぐに俺に電話をよこしてくるあたり、こいつはある意味、3人の中で一番器の大きいやつかもしれない。
「お前のことだから、柊の異動先が気にくわなかったんだろ」
「ああ、そうだよ。お前もわかんだろ、俺の気持ちが」
「まあな、わからんわけじゃない。とりあえず、まだちょっと昼、時間あるだろ。1階の共用フロアのスタンドに来いよ」
「ああ、待ってろ」
とりあえず、俺は誰かに今の自分の思いをぶちまけておきたかった。じゃないと、この勢いですぐに自分のパソコンから転職サイトに登録しかねなかった。現状では俺が話せる相手は、大政以上に相応しい相手がいないことは確かだ。正直、大政の方から電話してもらえて、俺にとっては心底ありがたかった。
「柊はなんて?」
「お前にどう思われようが、関係ないとか抜かしてたよ」
大政と俺はスタンドテーブルでコーヒーを飲みながら、話していた。
「まあ、あいつも行きたかったんだろうからな、あのポストに。俺らには言わなかったんだろうけど。あいつはそういう奴だわ」
「それならだな、それなら、異動が決まった時にでも、俺に真正面に伝えてこいよ、ってことなんだよ。仁義切れって。今日の今日まで、辞令が社内報で出るまで、俺に黙ってやがって。俺が許せないのは、そこなんだ。それって結局、俺に対して、やましい気持ちがあるからだろ」
「そういうのもあったかもしれないし、お前がこうなるっていうのもあったんじゃないか」
「どっちにしても、腹立つんだよ、あいつの態度が」
俺はコーヒを飲み干して、乱暴にカップをテーブルに置いた。
「ふふふ」
「何がおかしいんだよ」
「いや、なんかこういう話、どっかの本で読んだことあったなって」
「なんなんだよ」
「主人公とその親友が同じ女を好きになって、主人公が親友に黙って抜け駆けしてその女と一緒になっちゃうんだけど、親友がそれを苦に自殺しちまうって話。どこで読んだんだっけな、確か高校の現文の教科書に載ってたような…」
「俺も読んだことあるよ、その話。それだと、俺がその自殺する方ってことか」
「いや、だからさ、お前が全然そういうタイプじゃないよな、って思ってさ。それが、何かおかしくてさ。悪い悪い」
「ったく、ふざけんなよ、人が真面目に怒ってる時によ」
そうだ、確かにそんな話があった、すごく有名な小説。大政につられて、俺も少しおかしくなった。気の置けない相手に俺の心のうちを吐き出してしまって、俺の中での張り詰めていた感情の糸がほぐれたのか、なんとなく気が楽になった気がした。その小説に照らし合わせた構図としてみれば、ニューヨークの自由の女神を争っての俺と柊の三角関係ということか。でも、その話には主人公とその親友のほかに、大政みたいな登場人物は出てこなかったんだよな。
こいつのおかげで、小説と同じ結末にはならなさそうだった。