てくてく書店散歩~蟹ブックス編~
本のある空間が好きだ。書棚にずらりと並べられた本、平台に積まれた本、表紙が見えるように立てかけられた本。どんな景色でも、そこに本があれば心躍る空間になる。
もっといろんな書店を見てみたい。私欲と興味の元、去年あたりから積極的に書店へ出かけるようになった。“てくてく書店散歩”は、私がその書店を知った経緯や出会った人々、本を見るとき買ったときに何を考えていたかを書き綴った記録である。少しでも書店に行きたいと思ってくれたら幸いだ。
訪問のきっかけ
今回の舞台は高円寺。見知らぬ街への訪問の後押ししてくれたのは、Xのフォロワーであるきさいさんである。
店主の花田さんのことは小耳に挟んでいて知っていた。プロフィールに「パン屋の本屋」の名前が出ていて縁を感じたのを思い出す。年に何度か、パンと本を求めて通っていた本屋だからだ。
Xで情報は収集済みで、蟹ブックスにもいつか行きたいと思っていた。が、最近の私のフットワークは重く、「高円寺か……」と呟いて終わりになっていた。
きさいさんと蟹ブックスについて話したのは、花田さんの書いた『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を贈られたのがきっかけだ。本については別の記事で少しだけ触れている。
なんとなく、花田さんとは本の趣味が合うなと感じていた。きっと行けば楽しいはずなのだ。うーむ高円寺。などと唸っていたら出不精な私を激励するようなお誘いが来たのだった。蟹ブックスに行く+人と会う+本が買える。理由が三つもできてしまった。これは行かないわけにはいかないだろう。
高円寺という町
ということで、私は未知の地高円寺へと降り立ったのである。
降りてみて感じたのがサブカルの香り。具体的に言えば、歩く人も含めて「高円寺」だった。向かう前に夕食をとるためにベックスコーヒーに寄ったのだが、手書きレポートに取り組む学生と旅行帰りなのかスーツケース片手におしゃべりしているおしゃれなお姉さんズがいるのを見て、「これが高円寺か」と思った。夜も活気がある。しかし、猥雑ではない。清潔感があるのに生き生きとしている。その理由は自信のような気がした。自分が好き、という気持ちが全身に表れている人が多いような。カリッとしたクロックムッシュにはほうれん草も入っていてうれしかった。持参した本の雨が降る一節を読んで一息つく。仕事帰りのお茶は至福の時間だ。
さて、ほっとしたところでいざ蟹ブックスへ。雨が降る予報だったからしっかり長傘を持参したのだが、幸いなことに使う機会はなかった。私は雨女だから絶対に降ると覚悟していたのに。駅前に戻ったところで、ふと見覚えのある後姿を見かけた。「おやおや?」となりつつその場ではスルー。待ち合わせ場所に現れたら笑っちゃうかも、と思いながら大通りを行く。
地図を書いたのに違う通りを曲がって戻ったり、2階とあるのに3階まで上がって戻ったり、ぐるぐるしながらようやく到着。扉にある言葉を反芻しながら中に入る。書店に入って本を買わないことなどほとんどない私だが、閉じた扉を開ける勇気をもらった。
蟹ブックスという書店
耳に入る心地よい音楽。ほんのりオレンジがかった照明。入った瞬間「部屋だ」と思った。階上にあった無機質なザ・アパートといった扉を見ていたからかもしれない。暖かい部屋に迎え入れられたような感覚がした。
ふ、と横を向くと駅前で見た姿が。案の定きさいさんで、スタッフの方とお話している様子。そっと後ろの書棚を眺める。推している漫画家の新刊がどんと平積みされていて、新刊書店であることを教えてくれた。
話す声を聞きながら最初に手に取ったのは『物理学者、SF映画にハマる 「時間」と「宇宙」を巡る考察』だ。少しの間持ち歩いていたものの、結局棚に戻した本である。読みたいけどここではない、となんとなく感じたからだ。しばらくはシリーズの新刊やすでに持っている本、気になっていた本が目についた。どれもここで出会った本ではないので今日はスルーする。
人の話に横入りするのが苦手な私は、耳で会話を追いつつ本棚と向き合う。
小説棚を見たとき、私の予感が当たったことに気づいた。お金に糸目をつけないで本を買えばこうなるだろうな、という本棚だった。高山羽根子さんに桜庭一樹さんなど、見事に私の読む本である。文庫棚には村田沙耶香さん、梨木香歩さんの名前もある。とある棚のうち、2冊が家にある本で笑ってしまう。いやうちの本棚やないかい。同志を見つけたようでほっこりした気持ちになったが、元々好きな本を買ってもしょうがない。一期一会を求めて他を見る。
ノルウェーの作家による”歩く”ことについての本、『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』は正直欲しかった。だが、これを買うと予算上、あと1冊か2冊しか買えない。ちょっと冒険もしたかったから諦めた。次見かけたら買うぞ……と心に決める。
蟹の展示コーナーに『ちいさないきもの (くらしとかいかた) 』を見つけて思わずきさいさんに声をかけた。いつの間にか実家にあって、小さい頃よく開いた本だった。ザリガニの釣り方はこの本で学んだ気がする。大きな蟹より小さな沢蟹が好きだ。ひいおばあちゃんちの近くの側溝をちょこちょこ歩いていたのを思い出す。
微笑ましくなったところで、壁一面の本棚へ。知的好奇心に満ち溢れている棚だった。そこには人間と自然にまっすぐ向き合った本がたくさんあった。購入した本のうち2冊はその書棚から選んだものだ。私の好きな生と死の匂いが漂っている。マスクの下でニヤニヤしていたのがばれていないだろうか。
一言で表すと、「アパートの一室に集った人生」。純文学にエッセイ、軽めの学術書に旅行記、食べ物、写真集にZINE、味のある漫画。ファンタジーより近くて日常生活より遠い、絶妙な距離感を保つ本が多いようなイメージがあった。確かに人生の一部が描かれてはいるのだけれど、物理的に遠かったり、語り口や絵柄で膜を張っていたり。近くて遠い他人の人生がたくさんつまっていた。高円寺という町にぴったりな書店だと思う。
最終的に購入した本は5冊。そこにプラスで蟹ステッカーとブックカバーをつけてもらった。「どの本につけますか?」と聞かれたとき、「『葬儀!』で」と答えて内心わくわくしていた。こんな会話をすることはもう一生ないだろう。
初めての書店、特に個人書店ではまず本棚と向き合うことが多い。何度か通ってようやく話しかけてみようかなという気持ちになる。強みの分野を知ってから会話したい、と思ってしまうのだが、レジ用のタブレットにあった「かに」という文字とBGMのゆるいジャズの曲名が気になっているから、次行ったとき聞いてみたいなと思っている。
余談だが、平積みされている本の向きが同じではなくて、書店員だった人が並べていることが感じられた。書店インターンシップで、バランスを崩しにくい置き方として教わった小技である。
幸せの塊を腕に抱えて商店街を抜ける。今度は河岸を変えて購入した本の開封会をするのだ。
守宮が買った本はこれだ!
私が購入した本は以下の5冊。
・『葬儀!』ジュリエット カズ/著 吉田 良子/訳(柏書房)
・『ドライブイン・真夜中』高山 羽根子(U-NEXT)
・『国家心中』枝田(集英社)
・『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』奥野克巳(新潮文庫)
・『曖昧日記 2017年8月~2018年1月』Pha
一冊ずつ解説していこう。
『葬儀!』はタイトルからして強烈だ。エクスクラメーションマークをつけていい単語なんだ、と思った。目次には世界各国の葬儀がずらりと並んでいる。聞いたことはあるけれど詳しくは知らない、もしくはまったく見たことのない字面が心をワクワクさせた。日本の葬儀はある程度、台湾もまあまあだが、世界の葬儀は意外と知らない。葬儀入門として一冊、事典だと思って購入を決める。
2冊目の『ドライブイン・真夜中』は作家買いである。作家買いなのだが、出版がU-NEXTというところに惹かれた。さらに言うと日本では珍しいペーパーバックなのである。洋書のようなスタイルがいいな、と思って手に取った。今奥付を見たら、電子書籍を書籍化したものらしい。書籍の逆輸入みたいでおもしろい。きさいさんには「社会的な本みたいですね」と言われたのだが、実は高山さんはSF畑の人なのでたぶんザ・純文学ではない。芥川賞作品『首里の馬』も直球ではなく、ちょっと不思議な生活が繰り広げられていて一筋縄ではいかないところが好きなのだ。キャッチコピーやあらすじでは見えない文章を書く作家だと思っている。装丁含めてすべてが面白さで満ちていたので買った。
『国家心中』も作家買いですごめんなさい。冒険するとか言っておきながらそんなに広がりのない選書になってしまった。発売日の翌日に買って初動を増やすぞ、と思って買った。ちなみに枝田さんは「めがねの弔い」で知った。日常的に眼鏡を使っている身としてはしみじみとしてしまう話である。横道にそれるが、漫画に関してはなんとなく先見の明があるらしく、同人時代から追っていた漫画家さんたちが次々デビューしていっている。にっこにこしながら見守る毎日だ。
『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』、これも実は作者を知っている。「スピン」という文芸誌に載っていたコラムでプナンの葬儀の話を読んだのだった。やっぱり葬儀じゃないか! 今パラパラ見てみたらジャレド・ダイアモンドやデカルト、ニーチェ、フーコーの名も見えて、ああこれは好きだな、となった。うーん、ただの趣味! 人類学の好きなところは一つの集落の社会が垣間見られるところだ。言葉から死生観、人間関係、生きる術。家屋に使われる材料一つにもさまざまな背景がある、その深淵性が好きなのだ。文化人類学は生活圏外を、民俗学は生活圏内を、と見る人の場所が違うだけで似通った学問だからか、基礎的な部分は講義でなんとなく学んでいる。だから親近感が沸くのだろうか、ふらふらと吸い寄せられている感は否めない。まあでも生と死の匂いの強い蟹ブックスで出会うのがふさわしい本であったといえる(言い訳じみているかもしれないが)。
最後の『曖昧日記』は、この日いたスタッフのPhaさんが作者の本である。こういうゆるい日記が大好きだ。私がnoteという媒体を好んでいるのは肩ひじ張っていない日記がたくさん読めるからである。疲れて何も読む気が起きない夜にパラパラめくりたい本だな、と思った。そして、やはり作者の前で買うのが一番よかろう、という思いもあった。裏表紙の「ねむい」溶けた猫の絵がいい。ちょっと読んでみるとTwitterのつぶやきのような短さで安心した。と同時にすぐ読み終わってしまいそうでさみしくなった。こういうものはネットで読むのが一番気楽でいいのだけれど、画面を見る元気もない時には読めない。私にとって、電子書籍より、webサイトより紙媒体が一番ハードルが低く本が読めるのである。
当日はこんなに深い話をしなかったように思う。翌日の仕事に響かないよう時間に制限を設けていたからか、なんとなく落ち着かない気持ちだった。あと、いざ言葉に発しようとするとどうしても格好つけた「いい言葉」を言おうとしてしまう。発声するより文字の方が断然楽であるのはなぜだろう。相対するのがネックなのかもしれない。目の前に相手がいると、相手の言動から感情を読み取ろうとしてしまって、話そのものに集中できない時がある。人間観察と会話、どちらかに絞れないのである。対面は難しい。
ひとまず、大好きな詩人の話ができただけよしとしよう。池田彩乃さんは以前の書店散歩で書いた「SUNNY BOY BOOKS」で出会った。「礫の歌」を目の前で注文してもらってうれしかった。
本の話のほか、やりたいことを聞いたり、仕事に対するスタンスの話をしたりして別れた。
家に帰ったあと、興奮してなかなか眠れなくて結局眠い目をこすりながら出勤することになる。
紙の本である意味
最後に、きさいさんのレポへの返信として私の選出基準について書く。
紙の本を買う理由は単純で、ただ読みたいとその時その場で思ったから、が大きい。読みたい本は無限にある。でも、「今読みたい!」という本は意外と少ない。あと、「今ここで買わないともう買わないだろう」という本。これは大体書店をぶらついていてたまたま目に入った本であることが多い。探すときっと見つからないだろうな、という本は買うようにしている。
今のところ電子書籍はコミックぐらいしか購入していないので、物理でほしいかどうかは考えたことがない。なぜなら私にとって本は画面から逃れられる術であり、いつでもどこでも開ける一番手軽な別世界への扉だからである。寝る前に画面を見て目がらんらん、なんてこともしょっちゅうあるので、寝つけない夜にはちょうどいい。慣れていない、というのもあるが、視力の問題が一番影響しているかもしれない。疲れていると画面の文章はすぐ目が滑る。まだ紙の本の方が読みやすい。近づけたり遠ざけたりできるのもいい。文字の拡大は文章ではなく、文字を読むためにあるような気がする。
画面の方が読みやすい人ももちろんいるだろう。私は紙の本が読みやすい、というだけの話だ。
収納場所の問題は、以下の記事で説明している。
所有欲が希薄なので、手元に残る本はそんなにない(読まない人にとってはまあまあ多いようだ)。引越しするたびにまず確保するのが本の置き場所である。ようやく本棚と言えるものを導入したので、毎日眺めるのが楽しい。
あと、どういう経緯で手に入れたのかがわかるのもいい。旅先で買った本、古本屋で見つけた掘り出し物、誰かに贈ってもらった本。読み終えた本を人に贈ることもできる。本は巡り巡るもの、という感覚がある。
本を片手に流れ者
本を売る仕事にあこがれたことがある。だが、今回の書店散歩でふと思った。私は常に異邦人でありたい。訪問者の視点で書店を見たい。自分の城を持ちたいと思ったことのない私は店主には向いていない。
落ち着きがないのは、まだ世界を十分に見ていないからだろうか。定住したいと思える地に出会ったことがない。いつも、ここではないどこかを夢見て生きている。実際、夜寝て見る夢でも、現在寝ている場所が出てきたことはない。眠っていても別の場所のことを考えている。
流れ者でありたい人生で、どう本と関わっていくか。未来はまだ見えないけれど、もっといろんなところに出かけようと思った。もちろん、本をお供にして。
今回散歩した書店
購入した本
気になった本
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