2018年南山大学 中世の京都の町は,特徴的な景観を見せていた。図1は,それを模式的に示したものであるa。町には会所が設けられ,祭礼などについて議論する A がおこなわれた。会所の室内には,海外からもたらされた B などが飾られ,会所の蔵には祭礼で曳く山鉾が格納された。院政期の作品として知られる『 C 』(図2)には,道路に面した長屋状の住宅から,夏の疫病の流行を防ぐ祭礼である D を見物する貴族
2018年南山大学 江戸幕府が定めた禁中並公家諸法度によって,朝廷の行動は厳しく制限された。また,天皇家の費用をまかなうための所領である A は,必要最小限にとどめられた。後水尾天皇が大徳寺の僧侶に B の着用を勅許した際に,幕府は禁中並公家諸法度に違反したとして,その勅許を無効にする事件が起こった。これを契機として,朝廷に対する幕府権力の優越は確実なものとなった。
2018年南山大学 律令体制が確立した時代には,当時使節が派遣されていた D の文化の影響を受けて,活気のある白鳳文化が展開した。薬師寺に現存する E は,この時代の建築様式をよく伝えている。 平城京を中心に展開した天平文化は,まさに仏教文化であった。国家による官寺だけでなく,藤原不比等が建立した氏寺の F など,豪族たちによる寺院建立も盛んであった。仏教の興隆は,大仏造立と国分寺建立の詔でピー
飢饉の被害がとくに深刻であった天保年間には, A 国で1万人規模の一揆が発生した。この一揆については,のちに「鴨の騒立ち」と題した記録が作成された。 一方,都市でも,民衆の不満が噴出した。将軍 B の治世には,幕府の本拠地である江戸で初めて打ちこわしが発生し,有力な米問屋が襲われた。その後,農村社会の変容,およびそれにともなう都市住民層の変化dにより,都市騒擾が増加した。幕
『 A 』は,中世から近世にかけて,手習いの教科書として広く用いられた書物である。それは,1月の「新年の会」など,月ごとの主題に寄せた手紙文で構成されている。将軍の権威が確立した南北朝後期から室町時代前期の頃aに成立したとされる『 A 』は,学習者として中層の武家子弟を想定しており,武家の間で教養を身につけることが重要となっていたbと思われる。 『 A 』は,手紙文を模
2018年南山大学 天皇が生前に後継者に譲位することは古代からあり,それはしばしば権力の対立を招いた。たとえば,平城天皇は上皇となったのち,遷都をめぐって弟の A と対立したため,政治的混乱が生じた。 その後,藤原氏が天皇家との姻戚関係を通じて大きな権力を握ったが,藤原氏を外戚としない天皇が現れることもあった。11世紀の後三条天皇もそうした天皇の一人で, B らの補佐を得て,親政による強力な政策
2018年南山大学 ペリーが来航すると,江戸幕府はその対応に迫られた。老中阿部正弘は,従来の幕府の姿勢を転換し,諸大名や幕臣に広く意見を求め,幕府によりかつて謹慎させられた前水戸藩主 A をも幕政に参画させた。 こうして大名の発言力が高まると,幕府内に派閥が生まれた。幕政が不安定となる中,大老に就任したのが井伊直弼であった。幕府内外で異論のあった2つの問題について,井伊は強引に決定を下しa,それ