「母さん、晩年っていうのかい、」 2019/3/11 (隠れ虐待と母との記録4)
(前置き:この文章は「隠れ虐待」からなるエッセイの4作目です。同時に舞台作品のレビュー的なことや、筆者の投稿への思いなど綴ったりもしています。純粋に「隠れ虐待シリーズのその後追ってるよ!」という方はこれは読み飛ばしていただいて次の投稿をお待ちください!出てくる舞台作品に関しては投稿日が千秋楽日深夜なのでネタバレ大丈夫なはず・・・)
昨日の夜、たまたまTwitterで公演情報を見つけてからチケットを予約するまで、1分を要さなかったんじゃないかと思う。
私は家族についてのエッセイを公開して、それが母親にばれて読まれてしまい、家族が壊滅状態になっている。
匿名とは言えど、人には言えない自分や家族のことをエッセイにして公開していることに、私は自分のことを人非人ではないかと、人間として失格なのではないかと、思い始めてきた。
頭はこれから家族をどうしようか、公開した作品を消さねばならない、はやく消さなければいけないが踏み切れない、という葛藤が渦巻いている。
とにかく芝居なんて見に行っている場合じゃないのはわかっているが、気づいたら私はもう半日後には開演する芝居のチケットを買っていた。
チケットを買ったのは、劇団短距離男道ミサイル30発目「父さん、晩年っていうのかい、これは。~涙なみだの最終ツアー♨♨♨これで見納め太宰三部作完結編~」
劇団短距離弾道ミサイル(https://srmissile.wixsite.com/missile)とは、
東日本大震災の被害も冷めやらぬ中、震災後の仙台、東北、そして日本を励ましたいと仙台で結成された劇団である。
今回で幕を下ろす太宰三部作の一作目では「CoRich舞台芸術まつり!2017春」にてグランプリを受賞、二作目では演出の澤野氏が「若手演出家コンクール2017」にて最優秀賞等を受賞するなど、小劇場界隈で注目著しい劇団だ。本作はその完結作となる。
雨がまばらに降る下北沢。
14:30、真っ昼間の飲み屋でレモンサワーを一杯引っ掻けてから劇場に向かう。
数年前彼らの芝居を一回だけ見たことがあるその印象として、薄い酒を一杯仰いだくらいで見るのが具合がいいのではないかと判断したからだ。
劇場に入り、狙っていた2階の桟敷席の1列目中央に陣取る。
1階では舞台があるわけでなく、フラットな空間の中央にアクトスペースがあり、その回りを客席が囲んでる。桟敷席はその様子をまるごと上から覗き見れるような構造だ。
「囲んで下さい、囲んで下さい!」
すでに舞台面にいる役者が、そう言って入ってくる観客を席に促す。
彼は「途中刺激臭がする場面がございます。4Dでございます!」などと言って観客をどよつかせている。
時間になると、彼がジュラシックパークと藤原竜也とフレディ・マーキュリーに扮しながらアフタートークのような前説に興じて、その日比較的年齢層の高かった観客たちを勢いよくややウケさせ、本編は始まった。
前述した、若手日本一になった演出家である澤野さんという人がわざわざ舞台面に出て、丁寧なことに、自身の生い立ちや青春時代のことから話してくれた内容によると、
彼はこの劇団を、小劇場の世界で東北で一番の注目株の劇団に成長させた。
しかし、その裏でつのっていく借金や、度重なるトラブルが彼らに立ちはだかっていったそうだ。
彼の語る小劇場で活動していく難しさは私の想像を越えていた。
そして澤野さんは今、一児の父となり、今回の作品を最後に、劇団から、演劇から、身を引くことを決意したという。
こんなバックボーンもありつつ、太宰治の物語は始まる。
と思いきや、そうではない。
上記した演出家澤野と劇団のエピソード、これこそがこの舞台の、物語なのだ。
この舞台の内容は、一言で表すと「劇団員澤野が劇団をやめる話~太宰治『晩年』に乗せて~」といったところだった。
劇団の演出家の澤野という人が、今回の作品を最後に家庭の事情などを理由に劇団をやめる、という事情そのものをお芝居にしたものなのである。
「あの頃はまだ、世界が僕たちを中心に回っていた」
舞台面の中心で、自ら役者となって自らのことを語り始める、澤野。
その生い立ちから、ごくありふれてはいるが確かな青さを体験した青春時代。そこから大学に入って演劇を始め劇団を立ち上げ・・・。
活動してきた歩みや、一筋縄でいかない劇団員のと関係性など、赤裸々な裏話が表現されていく。
彼らは裸になりながら、その遍歴を人生ゲームのようにサイコロを振って語っていったり、叫んだり歌ったり踊ったりした。
最後、頭を下げる役者陣へと一杯の拍手に包まれる客席を見ながら
「これの何が面白いの?」と思った。
語弊を招くので、言い方を変えよう。
「何でこれは、こんなに面白かったの?」だ。
太宰治の作品シリーズとは銘打てど、内容と言えば、やれ僕のの生い立ちはこんなですだの、やれ劇団がこんな作品やって来ましただの、劇団員が失踪しましただの演出家がやめるんですだの、挙げ句の果てにやめる演出家がメンバーに向けた手紙を読む始末。
言ってしまえば「内輪」の一言で済ませられてしまう内容ばかりで、字面だけで説明すれば
前情報なしに見に来たお客さんが
「手前の事情なんて興味ねぇんだよ!」
「太宰を見せろ!」
と舞台に缶を投げてもおかしくなさそうなものだ。
それがどうだろう。
この作品を含め、彼らは「自分達を語ること」「自分達を見せること」で、観客を笑わせ、泣かせ、数々の賞を受賞すらしてきた。
人には自慢できない自分の過去や、劇団の借金などの裏事情や、自らの裸。
それは人様には、ましてや観客には決して見せてはいけないと思われること。つまり「恥」の部分。
それが恥ではない、ただの、懸命に生きている姿だと、そう力強く思わせてくれる説得力がそこにはあった。
見にくいものは決して醜くいものではないと、思わせた。
「苦しかった!」「悔しい!」という代わりに、彼らは裸で踊っていた。
ある人には作り話に見え、ある人には全て生々しい記録に見える、そんな作品だった。
私は幼少期の母との生活を「隠れ虐待」と称してエッセイにして公開した。
それはバレないようにしていた母にも読まれてしまった。それを読んだ母は電話越しに発狂して、家族は崩壊寸前を迎えている。それにも関わらず、私はその電話の様子すら、エッセイにして公開してしまった。それも母に読まれてしまい、また電話がかかってきたその時には、母は怒りと自責で静かに潰れようとしていた。
ああ、家族が終わっていく。そう家族の晩年を静かに感じていた。
母にこれだけは言っておかねばと、私は意を決した。
「お母さん、私はなんで、この記事を書いたと思う?」
私はそう母に聞いた。
何でこんなひどいことをするの?私への復讐なんでしょ?そう思っている母へ、私はこう切り出した。
「私は昔から、表現することしかできることがなかったんだよね」
母はうんとだけ言って私の次の言葉を待ってくれた。今にも叫びたいかもしれないのに、ありがたい。
「私と(弟)は昔から、文章だとか、絵だとか作るのが好きだったよね。というか、そればかりしてきたと思うの。お母さんは理解できなかっただろうけど、黙ってさせてくれてたよね」
母は最近まで、テレビに写るアイドルは、各々自分が好きな服を着てきた結果、いつもたまたまあんなにきらびやかにメンバー揃った服装をしているんだと思っていたくらいに、ものを作る側がいるという意識が薄い。「プロデュースしてる人がいて……衣装さんがいて……」という話をすると全く信じられないといった反応だった。
「お母さんは私たちに、勉強やスポーツを頑張ってほしかったかもしれないけど、私たちは文や図工や音楽にばかり夢中で。兄弟揃って図工と国語だけ成績よかったものね。」
こんな前置きをして、私はせっかく落ち着いてくれている母を叫ばせること覚悟で、言った。
「私、エッセイに、叔父さんのことを書いたことがあるんだよね」
「ええっ!」と母は声を上げた。
明らかに驚いている。親のことばかりでなく、よりによって叔父のことまで、と思っただろう。私は母の反応を窺うが、母は必死に落ち着こうとしてくれているようだった。
「まあ・・・確かに、レアな家庭では、あるよね・・・」と母はしばらくして言った。
私には重度の知的障害を持った叔父がいる。
彼は母の弟であり、喋ることも人とコミュニケーションを取ることもできない。いつも奇声を上げながら新聞を破いたりしていて、そんな叔父との生活は、私たち兄弟の価値観を形成する印象的な思い出になっている。
家での叔父との生活を綴ったエッセイを公開したことが、今日私がエッセイを公開していくきっかけになったのだった。
「叔父さんのことを書いて賞とか獲って、もちろん、家族に言えなかったよ。でも、罪悪感もあったし、こういうこと書くのっておかしいのかなと思ってね、この前(弟)にだけ、叔父さんのこと文章にして出しちゃったって言ったの」
「ええっ!」と2回目の声が上がる。単純な驚きと、そんなデリケートなこと言って弟が傷ついたらどうするの!という非難が伺える。
「そしたら(弟)、なんて言ったと思う?」
「な、なに・・・?」
「『あぁ、俺も書いてたよ、わかるよ』って」
「えええっ」3回目の驚きの声は、1番大きくてスマホを耳から離したほどだった。
「私、それ聞いてすごくほっとしたし、嬉しかった。私と(弟)はね、表現したいと思っているし、表現する手段を持っている。私たちは小さい頃から絵や工作や文や音楽で自分を表現して人に見てもらってきた。その表現したいことが叔父さんのことだっただけで、叔父さんのことが嫌だったとか、辛かったからとかじゃないんだよ。」
家族の大人にとって彼のことは包み隠しておくべきタブーだったかもしれないけど、私たちにとって彼は、自分が産まれたときからただの家族で、他の家族と等しく、彼はただの変な大人の一人だった。
「今、私は文章、(弟)は写真っていう手段でものを作ったりしている。リアルをものに留めようとしている人が、自分にとって1番のリアルである自分の家族を表現したくなるのは必然だと思う。決して恨みや不満でなく、ただ、こういうことがあったという表現の対象でしかないの。」
母はよほど動揺したのか「え、えりちゃんはお話がうまいねぇっ」などと言ったあと、しばらく黙り、
「わかるような、気がする」と呟いた。
わかっていない、気がする。
と私は思った。
一生わからなくていいことだとも、思った。
ただ、子供に自分の理解できない信念や生き方があったりするのだと、ぼんやりわかってくれたら御の字。それから、弟が家族を表現しても怒らないでやってほしいと、思った。
物の分別などつかないままでいたかった。
短くなったクーピーを握りしめて無我夢中で描いた絵や、いつもはやりたくないけどいいことがあったからいっぱい書いてしまった1日の日記を、誰かに見てほしくてなりふり構わず見せまくったあの強く強く清い気持ちだけで作れたら。見れたら。男が裸で踊ってるのを見るのに、意味なんて、必要ないんだ本当は。
客席に二人、号泣している女性がいるのを桟敷から発見していた。
私は上演中、その二人がどうしても気になって目で追っていた。
閉演の拍手の後、私はその涙の理由を彼女たちに聞いてみたい衝動に駆られた。
2階の桟敷から1階に降りたすぐの席に、1番派手に泣いていた女性が座っている。
なんとなくその後ろに居留まってしまう。
声をかけたい気持ちだったが、あまりにも熱心にアンケートを書いているので、私は下劇場を後にすることにした。せっかくの余韻に水を差すのも気が引けるし。
彼女はなぜ、そこまで泣いていたのだろう。
澤野さんがやめる悲劇が悲しいから?
澤野さんと劇団員の頑張りの歴史に心打たれたから?
芝居の演出や演技に圧倒されたから?他人事とは思えず共感したから?
そのドキュメントから何かメッセージを受け取ったから?
言葉にならないものなのかもしれない。
ただ、この作品が見た人の心を涙が溢れるほどに揺すぶってしまったという事実だけが確かで、生々しい。
こんな人たちが芝居を見に来る限り、彼らは芝居を作り見せ続けるのだと思う。
と、いう綺麗事を前に、芝居を作り続けられなくなってしまった演出家の存在から、その作品から、私は何を思えばよかったのだろうか。
エッセイは、消さずに公開し続けたい。
書き、見てもらうことをやめてはいけない。
帰路、釈然としない頭の中で、これだけが明瞭だった。
母にエッセイを消せと叫ばれても、私は未だに公開をやめていない。
母はどうなるかわからない。あらゆる手を尽くして、私は表現を続け、家族も修復していく覚悟を決めた。
非難も多く含む感想の数々の中に、
「消さないでくれて、ありがとう」
というたった短いメッセージが届いていたのを、思い出していた。
自分や家族の恥と言われるようなことを書き周知するようなマネは、罪なのかもしれない。
けれども、私は書きかけた創作を結ばなければいけない。そしてその罪を償い続けたい。
人非人でもいいじゃないのと、言われた気がした。
もっと悪人におなり、と囁かれた気がした。
どうにか、なる。
music:毛皮のマリーズ「晩年」
⏬「隠れ虐待」シリーズの1作目⏬
⏬叔父との日々を綴ったエッセイ⏬
⏬太宰先生ごめんなさい関連。人間失格のオマージュです。⏬
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