
短編小説:それでも君は年を越える
夜行列車の車窓に広がるのは、果てしなく続くダンジョンの闇だった。迷宮のように入り組んだその地形を、ユウはもう何年も進んできた。
ハァ、とユウが吐いた息は窓を白く曇らせる。ダウナーを着た腕でこすると、露わになった車窓の向こうには、遠くの方に踊る人影が見えてしまった。真っ白な服を着ていて、人間とは思えないような動き方でくねくね踊っている。
「くねくねだ。」見たらまずいのでユウはすぐに顔を下げたが、隣の車両からは何人かの悲鳴が聞こえた。
「間に合わなかったか。」
ユウはもう布団に奥へ潜り込みカーテンを閉めた。目を閉じた暗闇で汽笛が聞こえ、駅員が隣の車両で乗客の点呼をする音と、ボスッと車外に人間が捨てられる音がする。ユウは聞かないふりをして、目をきつく閉じて耳を手で覆う。背中から伝わる車体の振動にだけ集中しようとユウは努めた。
列車はダンジョンの中を進んでいる。
ユウはダンジョンに背を向けて暮らしている。
ダンジョン、はこの世界そのものだ。果てしなく広いその全貌はいまだ解明されていない。荒野・コンクリートの壁・湖・砂漠・誰に作られたともわからない階段が、全人類が道に迷って余りある広大な迷路を形作っている。何千キロ、何万キロともしれない広大なダンジョンで人は生まれ、生涯をかけてダンジョン探索をして新しいルートを発見することが生きる意味だと教育され、即死トラップで死んでいく。
ダンジョン内の何千万という人口を管理し、ダンジョン外へ至るルートを探す政府と、その地図を作成する会社や探検者へ装備を売る会社やレストランやダンジョン内の街を作る開発会社などが存在する。
できればユウは、探索が完了し安全が保障されて整備された市街地で過ごしたいが、所持金と探索代行税がそれを許さなかった。
眠れないユウはスケッチブックを開いた。
ベッド付近の小さな読書灯を点けて今まで描いた絵をぼんやり眺める。
八尺様、アクロバティックサラサラ、リョウメンスクナ……。
そんな名前をした怪異はユウが見たものもTVで観ただけのものもあった。ダンジョンには、遭遇すれば無事では済まない怪異たちが何体も彷徨っていて迷路を進む前線の探索者だけでなく時には市街地にも現れる。怪異やダンジョンに仕掛けられた罠を合わせて即死トラップと呼ぶが、ユウは怪異をスケッチブックに記録していた。怖くて、その場では見なかったふりをするのに、4Bの濃くおどろおどろしいタッチで描かずにはいられないのだった。
ユウはほんの一瞬の記憶を頼りに「くねくね」を描く。妖しく奇怪な踊りで見たものを発狂させずにはいられない。黒鉛の暗い空の下に揺れている怪異を、ユウは自分の安全圏の中で再現した。
列車が次第に減速していき、停まった。
カーテンをめくっても車窓は真っ暗で、他の乗客は誰も起きていない。なんでこんな所に停まるんだ、とユウは思っていたが降り積もって厚みのある雪のところどころに石畳のホームの存在が見え、かろうじて駅らしいことがわかった。暖かな寝台特急の車内と外気の寒暖差で窓には濃密な結露が生じている。暖かいとはいえ、寒そうな外を見ると毛布を更に重ねたくなる。
「外、出るか」
ユウは気まぐれに途中下車を試みることにした。理由は特にない。なんとなく退屈な夜に散歩をするような気持ちで。茶色いジャケットと帽子だけを羽織り、ユウは客車の端まで歩いてドアノブをひねった。
途端に冷たい外気がユウの頬を激しく殴る。踏みしめた雪は深く沈み、しっかりとした踏みごたえがあった。歩くたびにぎゅっ、ぎゅっと、雪を固める。周囲は静まり返り、機関車のディーゼルエンジンの音だけが響いている。ユウは小さな駅舎らしき建物を目にし、扉を押して中に入った。木造の駅舎の中は暖かく、薪ストーブが静かに火を燃やしている。壁には古びたかけ時計。針は「23:30」を示していた。そういえば今日は大晦日だったか、とユウは独り言ちた。年越しまであと30分。ユウはぼんやり見渡すが、周囲には人の気配はない。何か熱いお茶でも飲みたいな、と周りを見ていると大きな汽笛が聞こえてきた。
「あっ、」
気が付いた時にはもう遅かったようだ。ホームに着いた時にはもう線路を残して、乗ってきた寝台列車は影も形も無かった。「あちゃあ。」
そして財布や着替えや何やらを入れたカバンも一緒に失せてしまったことにユウは気が付いた。ああ、いつもこれだ。
いつもいつもその場の思い付きで順調そうなルートから降りてしまう。いつも気が付くのは手遅れになってからだ。
風で飛ばされそうな帽子を手で押さえながら、ユウはポケットをまさぐったが、スケッチブックと消しゴムの屑とかちびた4Bと2Hの鉛筆しか見つからなかった。ああ、この駅のホームで年を越すのかな。そんな自嘲をしたとき、駅舎の時計は先ほどと同じ11:30のままで止まっていた。
「無人駅みたいだし、ともかく一度外へ出るか」
駅舎の階段を滑らないよう注意深く降りて辺りを見渡すと、そこには木造の小料理屋が何軒も連なっている。誰も降りなかった秘境の駅の割には存外栄えているらしい。雪道にはぽつぽつ人が歩いていて、遠くの人影は足が覚束なげだ。酔漢の喧嘩も見える。無数の赤い提灯がぼんやりと雪に照らされていて、「おでん」だの「焼き鳥」だの書いた暖簾から人が出たり入ったりを繰り返している。
「ようこそ酩酊街へ――迷い込んだなら、ひとまず乾杯」
酩酊街?聞いたことのない名前だったが、ユウは手書きの看板のその言葉に引き寄せられるように、適当な一軒の店へと入った。
「いらっしゃい。」
居酒屋らしいと入ってから気づき、熱燗を頼んでから逡巡する。ユウはお品書きから適当に揚げ出し豆腐を頼むことにした。古びた木造のカウンターと、壁に貼られたメニューの短冊がどこか懐かしい。店主が調理場の奥へと消え、程なくして湯気の立つ徳利と小さな猪口、そして香ばしい香りを纏った揚げ出し豆腐が運ばれてきた。いただきます、と言ってユウは葱と刻んだ生姜を載せて豆腐を口に運んだ。噛むと熱い汁気が口の中に広がり、ともすれば火傷しそうな旨味を口から出さないように、ユウの舌は暴れた。うまい。ユウは気を良くして、次に炙ったしめ鯖を注文した。そしてしめ鯖が来るのを待つ間に、漬物をつまみながら一息ついていると、隣の席に座っていた中年の男が話しかけてきた。
「お兄さん、どこから来たの」
男は片手に小さなグラスを持ちながら、親しげに問いかけてくる。グラスには階段状に残ったビールの泡が浮かんでいた。
ユウは少し身構えながらも、素直に答えた。
「この辺りじゃないです。夜行列車に乗って、どこに着いたのかも分からず、ここに。」
男は「なるほど」と納得したように頷くと、口元に軽い笑みを浮かべた。
「じゃあ、『酩酊街』は初めてか。ここは普通のダンジョンとはちょっと違う。時間がねじれてるっていうか、言ってみりゃ、外の恐ろしいものは入ってこれないんだ。」
「はあ。時間がねじれている?」
ユウは疑問を口にしながらも、興味を惹かれた。
「そうさ。ここじゃ夜がずっと続く。だから怪異が現れることもない。安心して酒を飲める場所だ。」
男はそう言うと、店の天井の隅に置かれたブラウン管テレビを指さして、グラスを軽く口に付けた。テレビの左上の時刻は23:30。駅で見たのと寸分違わぬ時刻だ。テレビは年末恒例の歌番組を流していたが、ユウが知っているよりも古い、往年の歌手ばかりがさっきから同じような曲を歌っている。それを囲んで、料理の湯気と和気藹々とした雰囲気が店内を薄く包んでいる。そんな空気にユウは少しだけ肩の力を抜いた。
「ああそうそう。飲み屋は沢山あるんだが、あまり深みにはハマるなよ」
「はあ。」
要点を掴みかねる警句に、ユウは首を傾げた。
「『13月の塔』が見えたら、それ以上飲まずに帰った方が良い。」
「なんです、それ」ユウは詳しく聞こうとしたが、男はそれっきりビールを飲んで貝ノ口になってしまったので聞けずじまいだった。
やがて炙ったしめ鯖が運ばれてきた。
脂の乗った魚の香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、ユウは一口食べて、清酒をキュッと呷る。うまい。
だが、ふと気づいた。
「財布……ない。」
そうだ、さっき乗り遅れた列車の中に全部置いてきたのだった。ユウは思わず目を見開いた。
「兄ちゃん、勘定できんのかい。それなら大丈夫だよ。」隣の男が気楽そうに言った。
「ここでは時間が止まってるから、ツケ払いが半永久的にずっと続けられるのさ。気にすることはないよ。」男は笑いながら再びグラスを傾ける。その時、店主が静かに口を開いた。
「ツケは良いですが……必ず払ってくださいよ。」
「ああ、そのうちそのうち。」常連客は軽く手を振りながら笑った。
ユウも思わずその笑いに乗せられて、小さく笑みを漏らした。

ユウは、居酒屋を後にした頃にはすっかり気分が良くなっていた。熱燗の余韻を引きずったまま、街を歩いていると、さまざまな看板が目に飛び込んできた。「イタリアンバル」の文字に惹かれて暖簾をくぐると、薄暗い照明の中で賑やかな笑い声が響いていた。ユウは席に着くと、目の前に座った女の人と会話を交わし、気がつけば意気投合していた。「ここは面白い街よね。私が酔い疲れて『13月の塔』の中で倒れてたら、あなた助けてくれる?」彼女の言葉に、ユウは首を傾げた。
「みんな言うけどその『13月の塔』って何なの」
女は微笑んで答えず、カベルネ・ソーヴィニョンを口に含んだ。
次に立ち寄ったのは焼き鳥屋だった。店内には煙が立ち込め、炭火の香りが鼻腔をくすぐる。隣に座った初老の禿げた男が、大ぶりのロレックスを腕に巻きながら、「飲んでるか?」と声をかけてきた。
ユウが首を縦に振ると、男は気前よく酒と焼き鳥を奢ると言う。
「俺は社長なんや。探索者向けのライトを作る町工場やけどな。金ならいくらでもあるからな。遠慮せんと飲め。」男は一本120円の串だけを見繕って食べさせてくれた。この街では、時間はずっと23時30分のまま止まっている。
年が明けることもなく、日付が変わることもない。
酩酊街の奥へ奥へと進むたびに、ユウは新しい店を見つけては暖簾をくぐった。街中華、鍋焼きうどん、そしてまた別の居酒屋。食べたそばからまた腹が減るような不思議な感覚が続き、ユウは何度も赤提灯に足を止めた。
「君、絵が上手いんだな。」
ある居酒屋で、ユウは即席で描いた似顔絵を隣の酔客に渡した。
男は目を丸くしてユウを誉めそやした。
「すごいよ。これなら怪異のいる前線なんか出ずにダンジョン後方の市街地で絵を売って暮らせるんじゃないか?」
だが、その言葉にユウの心は少しも踊らなかった。ただ乾いた笑いを浮かべるだけだった。
やがてユウは、コップを置いて自嘲気味に自身の過去を語り始めていた。止められなかった。
「目先の新しいことばかり追いかけて、何も続けられない性分なんです。絵もそう。学生の頃は夢中で描いてたのに、途中で投げ出してしまった。結局就職にも失敗して、零細の探索会社に拾われたんです。でもそこも、同期が何人も死ぬような職場でした。」
そこは危険な地区なので大手企業は参入しないエリアのルート探索業をやっていた。ユウは今でも覚えている。あの日、二人一組の同期と探索中に行き止まりに誘導された。同期はその時、ユウよりも1mほど前に出ていた。ただそれだけで彼は全身毛むくじゃらの即死トラップの怪異にやられてしまったのだった。
「ハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタ」
そう狂ったように涎を垂らして言い続ける同期を置いて、ユウは逃げ出した。目をぎゅっと閉じて、耳を塞いで、その場から逃げるしかなかったのだ。
酔いの勢いもあって、ユウの言葉は止まらなかった。
「年末の夜、こんな人生はもう嫌だと思って、どこへ行くかもわからない切符を買って列車に乗ったんです。それが、この街への道でした。」
言い終えると、ユウの目からは涙がこぼれた。周りの酔客たちはしんと静まり返っていた。
やがて一人がぽつりと口を開いた。
「ここで酒を飲んで、現実を忘れて生きればいいさ。絵を描きたいなら描きたい時に描けばいい。急かされることもないし、好きにやればいいんだ。」
他の酔客たちも同意するように頷き、ユウに優しい言葉をかけた。だが、そんな声が響けば響くほど、ユウの胸には深い空虚感が広がっていった。この街では確かに安心できるかもしれない。だが、それだけだった。ユウが本当に求めているものは、この酩酊街のどこにも見つからないように思えてくる。
少し飲み直すか、とユウは千鳥足で飲み屋街の奥へと歩いていく。
酩酊街の夜はどこまでも続くかのようで、寄せては返す酔客たちの笑い声が微かな風のように耳を撫でていく。気がつけば、道は次第に狭くなり、ぼんやりした街灯さえも途切れ始めていた。
奥へ、さらに奥へと歩みを進めるユウの耳に、ふとラジオの音が飛び込んできた。通りがかったおでん屋の屋台から流れるそれは、ノイズ混じりの静かなメロディと、やがて響く時報の音。
「――零時をお知らせします。」
不意に足を止めたユウは、奇妙な感覚に襲われた。この街では時間が永遠に23時30分で止まっているはずだった。それなのに、どうして――。
ラジオの声が続く。
「日付が変わりました。13月1日です。」
ユウの心臓がひときわ大きく脈打った。「13月」という異質な響きが、酩酊街の警句を呼び覚ました。ここでは誰も口にしない、しかし誰もが暗黙の了解として避けてきた存在。それが、「13月の塔」だった。
ふと顔を上げると、視界の先にそびえ立つ黒い影が見えた。それはビルの様だったが、道を折れ曲がって別の角度から見るうちに巨大な六角形の構造をしていることがわかった。まるで夜の闇そのものを凝縮したかのような不気味な塔だ。ユウは足を止め、その場で息を呑む。
「それ以上飲まずに帰った方がいい……」
頭の中で警句が囁く。しかし、ユウの足は動きを止めなかった。
理由はまたわからなかった。半ば思いつきで、半ばやけになって、ユウはその塔へ向かい歩き出した。閉店している飲み屋ばかりになっていき、人もまばらになっていく。ひび割れた古い建物に薄暗い室外機だけが夜に輪郭をもって浮かんでいた。
そうして辿り着いた塔の入口は、無音の空間の中にぽっかりと開いていた。
生温かく湿った空気が肌にまとわりついた。
「あぁ……ああ……。」
薄暗い廊下の奥からはかすかな囁き声が聞こえてくる。
皆が正体を語らない塔に、自分以外の酔客でもいるのだろうか。
ユウは声の主を探してさらに奥へと進んだ。
呆けたように、塔の真ん中にある巨大な換気口で立ちすくんでいたのはいつぞやかの町工場の社長だった。
「あー、こんなところで大丈夫ですか」
「おー君は。どっかで会うたかな。ガハハハ」
男は禿げた頭を叩いて豪快に笑う。しん、とした薄暗く何もない空間で笑う男が、どこか変に浮いていてユウは不気味に思った。
「社長さん、こんな所いたら風邪ひきますよ」
「ああ……。ほうか。社長か。俺は社長やったんか。」
「え?」
「ハハハ。酔いすぎたみたいやわ。何も思い出されへん」
男はゆらりと体のバランスを崩した。
「なあ兄ちゃん教えてくれ。俺は一体、何処の誰で何者だったんかなあ」
それは、人が怪異へと変わる瞬間だった。
薄暗い空間に浮かび上がる無数の人影がガサガサと倒れた男に近寄っていく。それが人間でないことは四つ足を這って凄まじい速さで男を食らっているところを見れば明らかだった。男の食い散らかされた身体はやがて異形の手足へと形を変え、次第に全く異なる存在へと変貌していく。
男の目は光を失った深い闇を宿していたが、やがて顔の形が潰れ、得体の知れないものへと変わっていく。体全体が膨らむが、胴体よりも頭がどんどんと膨れ、頭のデカい赤ん坊のような異形になる。
「巨頭オ……か……。」
ユウは後ずさった。酩酊街の住人たちが、ここで怪異へと変わり果てる運命にあることを知り言葉を失った。この街は単なる飲み屋街ではなかった。
13月の塔は、怪異たちの住む神秘の領域であり、ここ酩酊街そのものが巨大なデストラップだったのだ。
大きな赤ん坊は目がよく見えないようで地響きを立てながら塔の中をさまよい始めた。すぐに襲われる心配は無いらしいが……。
ユウは塔の中で立ち尽くし、考えた。恐怖から目を逸らし、見て見ぬふりをして酩酊街の住人として13月を受け入れるか、それともここを脱出して現実を直視するのか。どちらを選んでも、待っているのは何かを失う痛みだった。
これは同時に、それは怪異の巣である酩酊街をダンジョン政府に処分してもらうか、それとも酩酊街の居心地の良さの為に目をつぶり、現状を維持するかという葛藤でもあった。
ぎゅっと閉じていた目を開けて、固く抑えていた手を耳から離して、ユウが手に取ったのは、鉛筆だった。
夜空に広がる静寂の中、ユウは酩酊街の出口に向かって歩く。
どれだけ酒と居心地の良さに酔いしれても、現実は背後から追ってくる。その現実に向き合うことを恐れ、何年もこの街で23時30分の大晦日を過ごし続けている人たちがいる。強烈な名残惜しさがユウの後ろ髪を引っ張る。
それでも、ユウは歩みを止めなかった。
駅の手前、古びた屋台がぽつんと営業していた。赤い提灯に「そば」の文字が揺れている。ユウはふらりと暖簾をくぐり、出汁の香りに包まれる店内に足を踏み入れた。
「天ぷらそば一つ。」「はいよ。」

店主は手際よく湯気の立つそばを差し出した。ユウが食べ始めると、店主はぽつりと話し始めた。
「ここから出る決心をするのは大したもんですよ。何十年もこの街で、大晦日の23:30を彷徨って、出てこられない人もいる。せっかく抜け出してこれたんだ。旦那はもうここに来ちゃいけませんよ。」
ユウは箸を止め、静かに答えた。
「誰だってずっと強くなんていられません。戦い続けることができなくなったとき、こういう街で休むのも悪くないと思います。だから……僕はまたここへ来てしまうかもしれない。でもそれが悪いことだとは思えません。」
店主はそれ以上何も言わず、エビの天ぷらを一尾、ユウのどんぶりへ載せてくれた。
駅のホームに立つと、壊れていたはずの時計が静かに12時を回り、新年を告げる鐘の音が遠くに聞こえた。酩酊街が急速に遠のいていくように感じる。あれほどまでにユウを強く引き留めようとしていた酔客の話し声や料理の湯気や炭火の匂い、おでんのだしの香りは、もう全く感じられなくなっていた。ただ雪の降る夜がしん、としている。
気づけば、そこにはもう行ってしまったはずの列車が静かに待っていた。ユウはその列車に乗り込み、狭い客室のベッドに身を預ける。失くしたはずの荷物は、全くそのままで置いてあった。疲れた体はあっという間に固い寝台に沈み込む。今夜一体何軒まわったのか記憶にない。どれくらいの時間、「23:30」を過ごしていただろうか。それどころかあれが本当の出来事だったかどうかもわからないような気もする。
現実も、ダンジョンも過酷だ。ほんの束の間の安らぎであったはずの酩酊街でさえも、怪異とトラップに過ぎなかった。それでも誰の心にも酩酊街はあって良い。ただそれが人間を蝕むものであってはいけないというだけだ。
ユウはそんなことを考えていた。
列車は長い闇の中を抜け、新年の朝日が差し込むダンジョンへと向かっていた。ユウは窓の外に広がる風景を眺める。無限に続く迷宮の景色。
ユウはスケッチブックを開き、酩酊街の奥地、「13月の塔」で描いた怪異の絵を見つめた。その歪な姿が、かつては人間だったことを思うと、胸にせつない痛みが走る。だが、見て見ぬふりはできない。
怪異討伐隊への通報準備を進めながら、ユウは最後にもう一度、酩酊街のことを思い返した。怪異が討伐されたその場所で、いつかまた熱燗を一杯飲みたい、ユウが今年も生きる理由はそれである。
終ーー
プロット
主人公ユウは、果てしなく広がる「ダンジョン」の中で生きる現実に疲れ、年越しの喧騒を避けて一人旅に出る。
ダンジョンとは、世界そのものであり、誰もがその迷宮の中を進む運命を背負う場所だ。ダンジョン内では、地図を作成する会社、探検者に装備を売る会社、レストランや街を構える企業など、産業が繁栄している。しかし、袋小路にはデストラップが待ち構え、迷い込めば生還が困難な場所も多い。時には八尺様や彷徨う怪異たちが現れ、命を狙われることもある。ユウは、そんなダンジョンを抜け出す術を探しつつ、果てのない迷路に嫌気がさしていた。シャワーを浴びる短い時間だけが、現実から一瞬離れて考え事をする自由な時間だった。年末のある日、ユウは行き先を決めず夜行列車に乗り込み、気が付くと「酩酊街」と呼ばれる不思議な飲み屋街にたどり着いていた。酩酊街は、ダンジョンの時間軸から切り離され、永遠に雪が降り続ける夜の世界。そこでは現実の喧騒から逃れた人々が、酒や歓談に酩酊しながら過ごしている。
ユウは酩酊街の住人たちと交流し、この街の自由な空気に惹かれる。絵を描く道具を手に入れ、久々にキャンバスに向き合うユウ。ダンジョンの厳しさから解放されたこの街での生活は、ユウに束の間の安らぎをもたらす。しかし、ユウの性格が顔を出し、目先の新しいことに飛びついては途中で放り出す癖が繰り返される。街の住人たちは「ここでは誰も急かさないよ」と慰めるが、ユウの心には満たされない空虚感が広がっていく。酩酊街での生活に馴染み、しばらくの間、新しい絵を描いたり、酒に酔いしれたりする日々を過ごすユウ。しかし、その穏やかさに徐々に虚しさを感じ始める。ずんずん酩酊街の奥へ奥へと細まった道を進んでいくと、おでん屋のラジオから、時報の音が。日付が変わって13月1日になった知らせだった。見ると不気味な塔があり、ユウは13月の塔には近づかない方が良いという警句を思い出す。しかし半ば思い付きで、半ばやけになり塔へとユウは進んでいく。上位存在である怪異たちが住まう神秘の領域で、酩酊街で永久の酔いにやられ、自分が何者かわからなくなった人たちが怪異に変化する瞬間を目撃してしまった。ユウは酩酊街でさえ大きなデストラップに過ぎないことに気づき大きな衝撃を受けるが、酩酊街の人たちから受けた優しさを思い出し、せつない気持ちになる。恐怖から目を逸らし、見て見ぬふりをして酩酊街の住人として13月を受け入れるか、それともここを脱出して現実を直視するかで葛藤する。それは怪異の巣である酩酊街をダンジョン政府に処分してもらうか、それとも酩酊街の居心地の良さの為に目をつぶり、現状を維持するかという葛藤でもあった。ユウは酩酊街での生活に別れを告げ、年越しを迎える寝台特急に乗り込む。列車の中で出会った乗客たちと、年越しそばを食べたり七輪で餅を炙ったりしながら新年を迎える準備を進める。
「時を止めていた自分」を再び動かす決心をしたユウは、年越しの瞬間、列車がダンジョンの世界へと戻るのを目の当たりにする。列車は新年の朝日が差し込む現実世界のダンジョンへと到着する。ユウは迷宮の広がる風景を見つめ、再びその世界に挑む覚悟を固める。最後に、怪異討伐隊に酩酊街を通報する用意をする。