物理・便意・倫理
ある日、僕は「おならをした時に大便を漏らす確率」を数式で証明しようと思い立った。理由は単純だ。友人が居酒屋で「それって結局、運じゃない?」と言ったのが妙に気に入らなかったからだ。運だとか、偶然だとか、そんな曖昧な言葉で片付けられることが嫌いだった。僕は数学で世界を整理したかったし、今回は尻の話題でも妥協するつもりはなかった。
公式はこうだ。
P = (F × C) ÷ S
ここで、
P = 漏らす確率
F = おならの圧力(ニュートン)
C = 消化器系の状態(ストレス指数)
S = 肛門括約筋の強度(絶対値)
分母がゼロになれば、その瞬間は人生の転換点だ。いや、下着の転換点かもしれない。
この数式を友人に見せたとき、彼は「くだらない」と言ったが、その目には微かな畏敬の念が宿っていた。それが僕の原動力だった。人間が「くだらない」と笑う時、その裏には自分が直視したくない真実が隠れている。僕はそう信じている。
問題はデータ収集だった。僕はまず自分の体を使って実験を始めた。朝食にカレーを食べ、昼は油っこいラーメンを食べた。夜には、これでもかと豆を詰め込んだサラダを食べた。そして、耐えがたいプレッシャーを感じるその瞬間に、記録をつけた。だが、実験の三日目、僕は誤算に気付いた。漏らした場合、それはもう数式の範囲を超えて「事件」になる。
そんな時、祖父がやって来た。彼は古い理科室に置いてありそうな試験管を手にしながら、こう言った。「人生は何が起こるか分からないだろ?漏らすも漏らさないも、結局は流れだよ。」
僕はその言葉を聞いて思った。祖父はただの風変わりな老人だが、肛門の自由については哲学者だったのかもしれない。
結論として、僕の数式はあまり役に立たなかった。なぜなら、すべての分子や分母は状況によって変化しすぎるからだ。唯一確かなのは、おならをするたび、僕たちは物理学と倫理学の狭間に立たされるということだ。
#スピリチュアル #自己啓発 #note毎日投稿 #スキしてみて #毎日更新 #精神疾患 #精神障害 #創作 #コンテンツ