『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957) ~第18章 東京の現況~
第18章の題名は『東京の現況』。
ここでクオン・デ候が語る ”現在”はいつ頃かと云えば、東京・大森区のクオン・デ候自宅で日本人・松林記者によるインタビューが行われたのが1943年12月頃でして、松林記者の序文冒頭には、
”1943年12月8日は、大東亜戦争開戦2周年の記念日であると同時に、記者の私が、ベトナム復国同盟会総裁であられる畿外候クオン・デ殿下に初めて拝謁する光栄に預かった記念すべき日である。”
と、⇧この様に書いてあります。ですから、この最終章は、台湾政府依頼の仕事を終えたクオン・デ候が台北から日本へ戻った1941年5月から1943年12月までの活動について語っているのです。
そして、この章は実に興味深い内容になっています。
自伝本の第1章『少年時代』からは、クオン・デ候の革命活動家としての苦難に満ちた流浪の日々を綴った内容ですが、何故かこの18章は前章までと全く内容が異なるのです。。。😅
その内容とは…、1939年にクオン・デ候が結成した『ベトナム復国同盟会』へ、それまで不屈の闘志で生き残って来たベトナム志士達が、国外或いは国内各地から続々と集まり始め、日本政府・軍と共に一斉に動き出している様子を列挙し、ベトナム人同志達の詳細を紹介しているのです。。。⇩
”東京参謀本部の仕事補佐を出来る人材を探して欲しいという依頼を受けました。 丁度その頃、南方協会からベトナム語教師として台湾に派遣されて来た、グエン・ジン・二ェップ(を)…東京参謀本部へ紹介し、”
”最近復国同盟会に入会したベトナム国内の団体、愛国団代表の武廷遺(ブ・ディン・ジー)氏、(中略)元は国内有名新聞の編集者で(中略)1936年にインドシナ自治党を組織して、1941年自治党を愛国団へ改名、北圻地方愛国者の兵力団体を結成した彼は、(中略)海南島で、南仏印派遣軍報道部の補佐業務に従事してから西貢(サイゴン)へ戻り、日本軍隊生活18カ月を経て、今年2月東京にやって来ました。
自身が率いる愛国団丸ごと復国同盟会へ入会し、国内の本会勢力になりました。特に北部に於ける勢力は、日毎に膨れ上がっています。”
”台北から黄南雄(ホアン・ナム・フン)がやって来ました。私に就いてもう長い間国の活動を続けている誠に実力のある男で、現在は台湾総督府情報部の嘱託として働いています。”
”今年(1943)は、呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が潘式午(ファン・トゥッ ク・ゴ)氏を代理とし東京へ派遣して来たので、国内活動に関する私の指令を呉廷琰氏へ持ち帰りました。”
この⇧、呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)氏とは、ベトナムがジュネーブ会議で南北分割された後、1955年南部に建国した『ベトナム共和国』の初代大統領です。
”呉廷琰(ゴ・ジン・ジェム)氏は、フエ朝廷政府大臣だったが、フランスのベトナム人弾圧政策に服せず辞職。現在は、秘かに抗仏活動を行っています。”
⇧この様にクオン・デ候が紹介している様に、この時期、クオン・デ候が最も頼りにした元阮(グエン)朝の忠臣・筆頭家老の立場にあり、当時のベトナム全土カトリックの頂点に立つ人物でした。
クオン・デ候が、
” 国内活動に関する私の指令を呉廷琰氏へ持ち帰りました。”
と明かす此の”指令”の正体が、1945年3月9日に決行された『仏印武力処理=マ(明)号作戦』の下準備工作でした。この私の推論の根拠は、先の記事に詳しく書きましたので、是非ご一読お願いします!😊
大東亜戦争終盤に、東南アジアで起こっていた多くの出来事が未だに詳細不明のままで、特にベトナムに関しては謎が多く…。
『マ号作戦』はどうして成功したのでしょうか??
この⇧『謎を解く鍵=ベトナム各界リーダーたちの大活躍・下準備工作』が、この章には ”判る人には判る” 様に書いてあります…😅😅😅
これは日本と、日越両国の子供たちにとって非常に大切な史実の筈ですが、戦後日本では全く議題にも上がりませんねぇ…。これも、戦後日本の闇なんでしょうか。
でも、いつの日かは分かりませんが、必ず真実が白日の下に晒される日が来る、『愛と勇気と正義は必ず勝つ!!』と信じて、これからもこつこつ発信を続けたい。😊😊😊 そうでなければ、数十年後あの世でクオン・デ候や犬養元首相、松井石根大将、大南公司の松下社長、それに、ジェム氏、ベトナム人のF爺さんにV爺さん等々…に会った時に堂々と顔を上げて話が出来ないだろうと、それを想像しただけで、昨今何故か強烈な恐怖を覚えるのです。😅
これは、自伝の最後にクオン・デ候が残した言葉。⇩
” 数十年間に亘る闘争の中で味わったあらゆる苦難も、大小数え切れない程の失敗も、私は弱気になったことはなく、反って今は断固として目標に起ち向かっていくつもりです。最期の息が絶える、その時まで。”
勿論、戦争など無いが一番です。
でも、弱い者いじめをする悪い奴等に、逆らうとひどい目に遭うからといって諾諾と従って土地を占領されたり、お金を巻き上げられたり、女子供を攫われたり、殴られたり蹴られたり、、、唯自分一代が我慢してればいい訳じゃない。自分の子供も孫も同じように未来永劫惨めな人生を生きなければならない。
その時、貴方ならどうしますか??
強大な敵に立ち向かっても、跳ね返され、痛めつけられ、極貧生活を続けると多くの人がそうであるように、楽な方へ。遂に志を曲げるでしょうか?本当は奴隷なのに、”自分は奴隷じゃない ”と言い聞かせて、今日も綺麗なスーツを身に纏い、ステーキとワインで乾杯するのでしょうか?
ベトナムのクオン・デ候は全然違いました。
苦難など、いくらでも来い。
失敗など大した事じゃない。
弱気になる必要などない。
断固として目標に向かって立ち向かえ。
最期の息が絶えるまで。
私の学生時代は、興味はおしゃれに食べ歩き、海外旅行くらい。そしてメディア宣伝のお蔭か、常に日本と自分の将来に漠然とした不安を抱えてました。
そんな時、何故か縁あり移り住んだベトナムで、このクオン・デ候の言葉と全く同じことをベトナムに教えられたのです。
(1941年5月から1943年12月)
**第18章 東京の現況**
1941年5月に台北から東京に戻ります。
帰国前に、数か国語に熟知するベトナム人で、東京参謀本部の仕事補佐を出来る人材を探して欲しいという依頼を受けました。
丁度その頃、南方協会からベトナム語教師として台湾に派遣されて来た、グエン・ジン・二ェップというベトナム人がいました。
私が台湾に居ると聞いて喜び、 南方協会の人間に連れられて面会に来て、復国同盟会に入会表明しました。
彼はフランス語が達者だったから、一緒に東京へ連れて来て東京参謀本部へ紹介し、3か月程仕事をした後で、参謀本部から或る映画会社を紹介されてそこで働きました。
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