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緩く繋がる?弱い責任?(第四章~第五章)

傷つきやすい他者の存在に対しての気遣いや傷つきやすさの脅威への憂慮は分かる。駅で一人で泣いている子どもを想定すれば。
一度遭遇してしまったら責任を感じてしまう。ちょっぴりでも大きくでも。
それは人としての何らかの心の動き。
その責任は弱く他者に委ねてもよい。

駅員さんを呼ぶ?
辺りを見回し行き交う他者を呼び止める?
誰か一緒に助けてくれませんか?という動き。でも反対に強い責任で独力で何とかしようとすれば、返って無責任な結果になる。

強く行動するか全く何もしないかの二者択一では、ハンスのいう排他的な考えにあたるという。だから遭遇して気掛かりなら他者を頼るとよいというハンス・ヨナスの論。そしてその責任は愛と両立しなくてもよい。むしろ個人的な愛ではない何か。

『ハインツのジレンマ』という話がある。病気の妻を助けたくても薬が買えず黙って見守るしかないのか、強盗をするしかないのか。
キャロル・ギリガンの思考実験では、ある男児は原則に基づいて説明をしたが、ある女児はひたすら戸惑い設問の条件を逸脱し、誰も傷つかない方法を考え出そうとした。

女児の考えは誤答なのか。原則に囚われずハインツとその妻に共感し何とか助けようと知恵を絞る。このことは論理学上は誤りではあるかもしれないが、人としてのあるべき道ではないの?

条件に基づいて条件をクリアしようとする。しかしその条件そのものが違っているとしたら?条件を変えてもいいという設問なら?人はもっと柔軟に考えられる。
(キャロル・ギリガンの思考実験のまま男児女児とした。思考の性差を測る実験ではないのならA児B児ではどうだろう)

保育園保育所の子どもへのケア
仕事としてのプロフェッショナルなケア
一方で保護者の自分の子どもへのケア
自己犠牲になり勝ちな労苦としてのケア
それがどんなに大変なものなのかは最近漸くどの世代へも可視化、言語化されてきたように思う。

今は保育士、幼稚園教員への理解は進んでいるのだろうか。働く母親へのケアは?
150ページから151ページにかけて読んでいて、なるほどDVとかモラハラとかはそういう仕組みだったのかと納得した。経済的に頼らざるを得ない女性は軽んじられ、そこから女性としての特性、性的対象、出産、育児…そして若いとか美しいとかのルッキズムなのかあ・・・暫し脱線、キャロル・ギリガンも戸谷氏もそんなことは言ってはいない。

 第五章  ケアの連帯       に続く




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