インドはヤバいのか?いや、ヤバくない #4 トタン屋根の下で茶髪が光る。
インド西ベンガル シリグリで朝を迎える。
すっかり雨季に突入しており、夜は雷雨と大雨が降り注いでいた。道端のいたるところにできていた水溜まりやぬかるみを見出して理解した。おかげでそれほどの暑さを感じない。
この街もやはりインドらしく、人通りの喧騒は活気に満ちているものの、デリーとは大きく異なる点が1つ。
詐欺師が話しかけてこない!
わずか数日過ごしたデリーとアグラで、驚くほど多くのきな臭い声かけにあったことで、すっかりインドとはそういうものだという考えに陥っていた。
シリグリも地方都市なので、田舎のような親切さがあるとまではいかないが、少なくとも強烈な客引きやリキシャの高額請求に会うことはなかった。
よく考えてみれば、詐欺やぼったくりも商売の一形態で、2度と会わない観光客を相手に信頼を築く必要がないからこそ成り立つビジネスなのだ。
客と何度も面識する無期限繰り返しゲームでは、裏切りを選択すればしっぺ返しがやってくるため、詐欺ビジネスはそうそう起こり得ない。
「インドに行って騙されたわ〜笑」と語りたくなっていた自分を振り返り、恥ずかしくなった。
木を見て森を語ることができないように、インドという国を一口で語ることはできないな、と思い知った。
さて、今日の目的はシリグリでNGOが行う教育支援について、実態をモニタリングすることだ。
ストリートチルドレンや物乞いの生活拠点となる街1番のハブ駅、New Jalpaiguri 駅(NJP)に向かう。
(道路が舗装されきっておらず、リキシャで10分ほど走った後から凸凹道で尻が破壊されはじめた)
駅から徒歩3分ほど歩き脇道にそれると、トタン小屋が見える。現地のNGOによって経営されるJAGRITIという児童保護施設&教育施設だ。ここでは、公教育が受けられない子供に向けて教育活動を行い、社会生活へ参入できるよう補助を行う。
スタッフ(教員)の女性2人が出迎えてくれた。昼12時ごろ、彼女らのルーティンは、NJP駅に住まう子どもたちを呼びかけるところから始まった。
インドにいると物乞いに出会うことは稀でないが、物乞いは基本的に無視することが推奨され、視界と世界からいないものとして見なされる。調査や支援活動をしていなければ、彼らの話を聞き理解を試みる機会は滅多にない。
駅には、様々な形態の物乞いが住んでいる。それぞれのバイオグラフィーは別の投稿に任せるとして、意外にも家族で物乞いをしている割合が大きいことに驚いた。
そして、一部の親は子どもが教育活動に参加することを拒み、抗議する。子どもが午後のあいだ駅から離れてしまい、物乞い活動に支障が出ることを危惧していたのだ。(もちろん、多くの親は子どもが教育施設に通うことを拒否しないが)
どうやら”子どもである”という年齢のステータスは、物乞い界隈においてアドバンテージとして機能するらしい。子どもは、大人が物乞いをしていても到底得られないような、1日100〜500ルピーという大金を稼ぐことができるという。稼ぎ頭。
確かに私たちも、不遇な子どもを見ると無意識のうちに「自分の力ではどうこうできない生まれた環境のせいで、彼らは可哀想な状況にある」という悲哀の感情が呼び起こされる。なぜか大人に対してはこういった感情は起こりにくい。
JAGRITIのスタッフは、親との交渉に奮闘したり、駅の職員とのコネクションを駆使したりして、子どもたちに声をかけながら駅を練り歩く。はたから見ると、教育活動そのものよりもこの勧誘ルーティンの方がよっぽど骨が折れる仕事にしか見えない。
1時間ほど経っただろうか、スタッフは駅から教育施設JAGRITIへと移動し始める。後ろには10人程度の子どもたちがトコトコとついてくる。男の子も女の子もおり、年齢は3歳から10歳くらいまで幅広い。どの子も日頃から栄養が足りていないためか、茶髪が目立つ。
午後の授業が始まる前に、子どもたちは大事な大事な儀式をとりおこなう。
めいいっぱいのシャワーを浴びて、めいいっぱいのお洒落な服に着替え、めいいっぱいの給食を食べるのだ。
もちろんシャワーといっても簡易な水シャワーだし、服も施設の貸し出し着だし、給食も一食100円ほどのカレーだ。だが、家のない子どもにとってはこれでもかというほど至福な時間なのだ。
プレートにたっぷりと盛られたライス・ダール(日本でいう味噌汁的な、レンズ豆や芋を煮込んだスープ)・カレー・そして卵。子どもたちはいとも簡単にたいらげてしまう。何人かの子は机の上で食べることに慣れておらず、床に座って親しみ深い食べ方でカレーを頬張る。
給食を食べ終えた子どもたちは教室に向かい、各々の学びに合わせてベンガル語やアルファベットを書いたり、ゲームをはじめる。公教育のカリキュラムに照らし合わせるなら、子どもたちの置かれた学習進度はとても遅い。他の学校を現地調査して感じたことではあるが、アルファベットはおろかベンガル語を書ききれない子どもが公教育のレールに参入することは、とても難しい。
だが、子どもたちは将来何に活かせるかもわからない学習を、心の底からピュアに楽しんでいる。学ぶ行為自体への欲求を駆動させるという視点では、この微視的な教育活動のポテンシャルはとても大きいのではないだろうか。
トタン屋根の下では子どもたちの茶髪が、キラキラと輝いていた。