私がすっぴんのわけ
久しぶりの日本で感じた違和感
途上国での2年間のボランティアを終え、日本に帰国してからどっと疲れるようになってしまった。
電車の広告を見ていると、
と言われているような気がしてくるのだ。
マーケティングのプロたちがあらゆる手を使い、消費者にお金を落とさせようとする。
その商品が、消費者にとって本当に必要かどうかは、彼らには関係ない。
私自身、脱毛をしないとモテないと思い、施術を受けたことがあるが、金額に見合った成果が得られず、余計に虚しくなり、後悔した。
その後悔を胸に、自分に必要なものは自分のものさしで決めると誓った。
私がすっぴんのわけ
前職の接客業では、女性社員は化粧をすることが義務付けられていたため、毎日軽く化粧をしていた。
しかし、会社を辞めてからは毎日すっぴんで過ごしている。
肌のお手入れは、昔も今も水洗顔のみ。
こうして書いてみると、ただのズボラ女のように聞こえるかもしれない。
しかし、このスタイルが私の肌には合っているのだ。
私の肌には、余分な油分が無く、ニキビもない。
スキンケアやメイクをしない美容法「肌断食」という言葉もあるくらいだ。
化粧をしなければならなかった昔は、いつも目が痒いような違和感があったが、そんな悩みもなくなった。
青年海外協力隊としてグアテマラの自然の中で生活した2年間、最低限のものに囲まれて暮らす、いわゆるミニマリズムを実践した。
任期を終え、日本に帰国し、久しぶりにショッピングモールに行った際、化粧品売り場を通り過ぎようとしてふと立ち止まった。
小さなプラスチックに入った何種類もの同じような色の化粧品がブランドに分かれてずらりと並ぶ、日本では当たり前の光景。
この化学物質やプラスチックが、毎日どこかで大量に生産され、誰かに使われては、最終的に流されるか捨てられるかしている。
このようなコスメを使わずにすっぴんでいることは、エコだ。
これも私がすっぴんで暮らす理由の一つだ。
揺らぐ、すっぴんポリシー
コスメは多くの人に、なくてはならないものとして認識されている。
コンプレックスを隠し、容姿の自信をつけさせてくれる、または、気持ちをアゲてくれる、魔法のツールだ。
いくらすっぴんが好きとはいえ、私も着物やドレスを着て出かけるときは、着ているものと顔のトーンがマッチするように化粧をする。
私が日本に帰国してから戸惑ったことは、海外にいるときはすっぴんでも堂々と暮らしていたのに、
と、自分のすっぴんポリシーが簡単に揺らいでしまうことだった。
メイクをしないという自分の選択肢に対する自信が揺らいでしまうのは、単に「周りをすぐに気にしてしまう性格」のせいかもしれないが、
なぜ、海外より日本にいるときの方が、自分らしくいることが難しく感じてしまうのだろうか。
紫外線への強迫概念
2021年にも春がきた。
「春は紫外線が強くなるから」と人々は警戒し、日焼け止めを買いに走る。
屋外テニスコートで面白い光景を見た。
中年の女性集団が、ダースベーダーさながらの全身黒ずくめでテニスをしているのだ。
こちらから確認できるのは彼女たちの目だけ。
彼女たちの視界で、ボールの動きが捉えられるのだろうか。
動きづらくないのだろうか。暑くないのだろうか。
過度の直射日光は皮膚病の元にもなる為、避けるのが賢明だろう。
しかし、ほんの数時間のテニスの為に全身を覆ってまでして、彼女たちが守りたいものは何だろうか。
そんなことを考えながら、私は、
という母の言葉を思い出した。
私のためを思ってのアドバイスだったが、日焼け止めを肌に塗るストレスと、シミやシワの脅威を天秤にかけても、私の場合どうしても「日焼け止めを塗らない」選択肢が勝ってしまう。
そのため、今でも母のアドバイスを無視し続けている。
まとめ
美しく、若々しくいたい。
それは世の多くの人々の願いかもしれない。
そして、日本は、このような人々の願望と不安を刺激するCMや広告にあふれている。
お店に行くと、化粧品販売員やエステティシャンは、言葉巧みに商品を売りつけようとする。
物が売れると雇用が生み出され、経済が回る。
化粧品を買い、エステに通うことは、ある意味、社会貢献なのかもしれない。
でも、この消費主義社会の流れに飲まれると、自分が何を本当に必要としているのか、何が好きなのかが分からなくなり、自分が自分ではなくなっていくような気がする。
何を正解とするかは人によって異なり、自分の心が喜ぶものを知っているのは自分だけだ。
こんなことをあーだこーだ考えている中、ありのままの私が好きだと言ってくれる人と出会い、最近結婚した。
これからも、太陽の光を素肌で浴びながら生きていきたいと思う。