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白いカラス(10) ー暗黙の原則ー
「平和」という結論を出すための「方程式を巡る旅」もいよいよ最終回となりました、と書くつもりでした。
でも、今までに増して長くなりそうなので、次回を最終回とさせて頂きます。
それでは、お付き合いください。
中国の偵察・攻撃型無人機「TB001」1機が沖縄本島と宮古島の間を通過し、東シナ海から太平洋に向かった。
その後、与那国島など先島諸島の南の太平洋上で旋回し、台湾南方のバシー海峡方面に飛んだ。
航空自衛隊の戦闘機が緊急発進して監視した。
中国という国家が、東シナ海、太平洋、台湾を重視していることはすでに指摘しました。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n6e4067b9c906
「国家」とは、国力を高めるため、利益追求を目的として動く組織のこと。
なぜ、国家が軍事力を保持するかといえば、国内向けには治安維持、災害救助。
そして、国際的にはプレゼンスの強化、政治的目的の達成、独立国家としての威信・象徴としてだけでなく、安全保障に不可欠な抑止力となるから。
言うまでもなく、「武力紛争=戦争」を遂行する能力は軍事力の持つ能力の一つに過ぎないのです。
それにも関わらず「軍事力を増強する」あるいは、「憲法9条の改正」と聞くと、条件反射のように「戦争をする国にする」「子どもたちを戦場に送るつもりか」と主張する人がいますが、それは明らかに間違いです。
Q:「国家は利益追求を目的として動く」ということは、相手国家にとって利益になると考えれば、日本に戦争をしかけてくるってこともあるのでしょうか?
A:その通りです。
中国でもヨーロッパでもアメリカでも、より広い土地、より肥沃な土地を求めて領土拡大してきた歴史をみれば、それがわかります。
Q:そうだとするなら、「憲法9条の存在」イコール「平和」との考えは当たっていないのでは?
A:そうなんです。
「憲法9条」を平和実現のための普遍的な価値観として扱ってしまうと、とんでもない結果を惹起(じゃっき)するかもしれません。
だから、熟考・議論し、政治決定しなければならないのです。
◇ ◇ ◇ ◇
認知的不協和
第3種過誤を恐れない人は、間違いを指摘されても、それを訂正しようとしません。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n6e4067b9c906
無知の知なら、「自分は知らないということを自覚している」わけですから、学ぼうという気持ちにもなりましょうが・・・。
上述のように、間違いを訂正することなく、正しい定義としたままでいると、前提が間違っているのですから、正しい出力など出てきません。
認知的不協和:自分の認知と違う認知に出会い、両者の間に不一致・不調和を生じること。
居心地の悪い状態が続かないよう、それを解消しようとして行動や態度に変化が起こります。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n85df622aef30
このシリーズを始めたきっかけは、仲良しと思っていた noterさんが「憲法9条を改正したら、日本は他国を侵略するようになる」という確率論からいえば、ほぼ起こりえない「無危害でなくなるリスク」を過度に心配していたこと。
その人は「日本は覇権国家を目指しているわけでもなく、現状に満足しているで、他国を侵略する」可能性はない=「無危害」と自覚しつつも、不安を払拭できない模様。
「このまま侵攻軍型の軍備増強をつづければ、それは近隣諸国にとっての軍事的脅威となり、軍拡をうながし、ひいては緊張増加の誘因となる」ってね。
ひたすら日本が「無危害」でなくなることを心配する割に、中国が日本にとって「無危害」であり続けるかどうかについては、まったく関心をよせません(笑)。
その方は自分の中の認知的不協和を解消しようと、コメントでからんできたのですが、結局、オイラに愛想を尽かしたような言いぐさを残して去って行く結果に(笑)。
◇ ◇ ◇ ◇
暗黙の原則
いくら論理的な説明をしても、確率論を無視する人は「教育とマスコミの洗脳によって恐怖症(フォビア)とされてしまった人だ」とオイラに気づかせてくれたのが、ジャン=クロード・ミルネールという哲学者。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n7ad1c739edec
ラディカルには「根本的」「根源的」っていう意味もありますが、「過激なさま」「極端なさま」「急進的なさま」を意味します。
一言で言えば、「極端」ってこと(笑)。
ジャン=クロード・ミルネールは、1968年の5月革命以前の戦後フランスの知識人について、こんな風に言っているんです。
ラディカルな左翼知識人の頭の中には2つの原則があったと。
1つは、口にする明示的な原則。典型例として、サルトルの「アンチコミュニストは犬だ」をあげています。これの意味するところは「コミュニストではなければ人間ではない」ってこと。
もう1つは、本当はよく知っているが、絶対に口にしなかった暗黙の原則。
ミルネールが言うには「ちゃんとした左翼の共産主義者は絶対に共産党に入党しない」そうなんです。
なぜ、ちゃんとした知識人は共産党に入党しないのでしょう?
ミルネールは言います。
「知識人は、来るべき日(革命の日)には入党する心構えでいるのだが、その日は絶対に来ないからだ」と。
そして、こうも言っています「未熟な共産党に入党する人は本物ではない」なぜなら「それは、『真の神と偶像を取り違えるようなものだ』から」と。
「真の神と偶像を取り違えた本物ではない」人たちについて、前回はみこちゃんの記事でしたが、今回は猫ムスメちゃんの記事をご紹介。
https://note.com/namedtama/n/n1474c642ed5d
モリカケサクラ問題など、とっくにケリがついてる(真の神)のに、朝日新聞(真の神ならぬ、便所紙 by 猫ムスメ)によってケリがついていないかのように思わされている(偶像)読者の川柳は痛すぎます。
みこちゃんや猫ムスメちゃんによって一刀両断に切り捨てられていますが、彼らは便所紙に踊らされる「いち大衆」でしかない(笑)。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n14fd1b25fbdd
この記事で示したように、人には「この意見は多数らしい」と推測する能力が備わっていましたね。
戦後の長きにわたって、「この意見は多数らしい」との印象を持たせられてきた大衆に対して、もはや理性的説得なんて、できっこありません(笑)。
改憲恐怖症を説得できないのと同じで、オイラの「便所紙」恐怖症も一向に改善する兆しは見えませんけどね(笑)。
◇ ◇ ◇ ◇
「出来る」と「する」
軍事力増強が他国に脅威を与え、他国のさらなるパワー増強を招く、という安全保障のジレンマ。
確かに、これは悩ましい問題です。
ただ、「ジレンマがあるから、議論すべきでない」ということにはなりません。
政治屋が「憲法9条があるから平和が一挙に実現できる」としか言わないなら、政治という営みは不要ということになり、「政治屋など無用の長物だ」に帰結するしかないですよね。
「便所紙」に踊らされていない人だって、覇権国家アメリカのプレゼンスの低下イコール「不戦の憲法を速やかに改正すべき」と最近まで実感していなかったはず。
ところが、ロシアによるウクライナ侵攻によって、事態は一変しました。
ジョン・ロックが自然状態を「自然法の支配する平和な、しかし不安定な状態」とみなしたのは、彼が無血革命と言われた名誉革命に遭遇する時代を生きていたことと関係しています。
日本人が国際情勢に疎いのも、ロックが彼の生きた時代に影響されたのに似ています。
一方、トマス・ホッブズは名誉革命の30年も前に起こった清教徒革命という血なまぐさいイングランド内戦を経験しています。
そして、オリバー・クロムウェルの統治下で刊行したのが『リヴァイアサン』。
血なまぐさい革命の大混乱を目の当たりにしたホッブズは書いています。「継続的な恐怖と暴力による死の危険とが存在し、人間の生活は孤独で貧しく、険悪で残忍でしかも短い」と。
これですから絶対的権力者とその権力に裏付けられた法が存在しない自然状態を「人間が人間に対して狼たる」戦争状態と捉えて当然でしょう。
このようなどん底を脱して、法が存在する平穏無事の状態に移行する手段としてホッブズが仮想したのが社会契約だったのです。
多くの日本人は、血なまぐさいウクライナ侵攻を、ホッブズと同じ感性で眺めているのです。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n6dcae8cf6dcc
だから、「憲法改正をすべき」という国民が多数を占めるようになったのでしょう。
護憲派としては追い込まれた感が否めません。
護憲派の常套句は「国防のための軍備増強をすれば、他国に侵略戦争をしかけるようになる」ですが、「出来る」と「する」の同一視戦略のメッキがはがれてしまったわけですから(笑)。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n7ad1c739edec?magazine_key=m15762e7bed52
確率論から言って、日本が改憲して「出来る」ようになったとしても、侵略を「する」可能性は限りなくゼロだってこと、国民はすでに知っていますから。
それなのに、今なお、「命より憲法9条が大事」と主張したり、世界政府・世界連邦を夢見ることのできる国民ではなくて市民の方は、ある意味、羨ましい(笑)。
◇ ◇ ◇ ◇
平和と反戦はイコールか?
「戦争抑止のために軍備を放棄すべき」というのも、護憲派お決まりのフレーズですが・・・。
一部の社会主義者は社会改革を漸進(ぜんしん)的に進めることで、労働者階級の解放と、その国際的連携による反戦平和の実現を唱えました。
ところが、マルクス主義の主流派は非平和主義=革命的武装闘争を打ち出します。
ロシア革命の指導者レーニンは資本主義=抑圧者が起こす帝国主義戦争は悪い戦争であるのに対して、被抑圧者の闘争は正しい戦争だと明言しています。
つまり、共産主義の場合、平和=反戦ではなく、「平和とは「ブルジョワジーが行う『悪い戦争』への反対」を意味します。
争いのない平和は、相互信頼と相互尊重を基盤にして成り立っています。
それなのに、軍備を増強すれば、相手に猜疑心を抱かせるだけ。
身を守るためと称して、相手を攻撃しうる武器を手にして、どうして相手の猜疑を解いて信頼と理解を得られると言えるのでしょう。
軍備の増強による戦争抑止の思想は、論理と倫理、および現実においても、すでに破綻しています。
人間が生み出した最強かつ最凶の武器、核兵器において、すでに戦争抑止の機能は神話となりつつあるのです。
今こそ、憲法9条を守り抜きましょう。
護憲派の「争いのない平和」という行(くだり)について。
「平和とは「ブルジョワジーが行う『悪い戦争』への反対」であるなら、「争いのない平和」はトートロジーです。
まるで、「愚かな賢者」、「賢い愚者」と言うようなもの。
トートロジー(循環論法、同語反復)とは、具体的な内容とは無関係に必ず真になる言い回しで、言葉数が多くても「無内容で説明にならない説明」のこと。
言うまでもなく、相手国は悪い戦争に対抗するために「軍備を放棄」することはないでしょう。
それなのに、平和主義者を自認する?立憲君主の泉代表:「非暴力の教えは、非平和主義者を含む社会一般が採用すべき政治的選択」とのたまいました。
そもそも、「国防」と「非暴力の教え」との間には因果関係も相関関係も存在しませんから、あえて「国防」の義務をはずしてあるんですね(笑)。
老婆心ながら、
「『非暴力の教えは、社会一般が採用すべき政治的選択』という提案を受け入れるためには、『連帯責任の議論が欠かせない」とならなければなりません。
◇ ◇ ◇ ◇
連帯責任
連帯責任:行為や結果の責任を共同で負うこと。
社会的恩恵は要求するが、社会的負担はイヤ、権利は行使したいが義務を負うのはイヤという人を、世間ではフリー・ライダー(ただ乗り)と呼びます。あるいは、チェリー・ピッキングってね(笑)。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n05429e449d38
小規模の共同体で自足的生活を送っている人なら、有事でも「われ関せず」でいいでしょうが、平時から経済・福祉・教育の恩恵を受けているオイラたちの場合、対外政策についてだけ、「われ関せず」とは行きません。
国防議論も一緒です。
戦後ずっと紛争に巻き込まれなかった、ということだけを根拠に、紛争や戦争の原因に関する検討を避け、憲法を無批判的に受容せよ、と言うだけでは、平和は手に入りません。
政治とは必ずしも相容れない諸価値の交渉と取引を通じて成立するのであり、政治家がそれをしなくて誰がするというのでしょう?
つまり、政治家はパフォーマティブでなければならないのです。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n19a4a14f3d92
https://note.com/gashin_syoutan/n/nb4c380baaa63
非学者論に負けず:学問のない者に、道理を説いても無駄であることの喩え。どれほど筋道の通った論議であっても、言を左右にして、屈伏しようとはしないこと。
https://note.com/gashin_syoutan/n/nf8aed6608641
そもそも意識高い系の人々はコンスタティブ(結論を出す気がない)ですから、「議論に負ける訳がない」し、連帯責任なんてまっぴらゴメンってとこでしょうか(笑)。
あきれるを通り越して、ため息しか出ませんよね。
◇ ◇ ◇ ◇
無危害と不作為の罪
コンスタティブの反意語がパフォーマティブ。
https://note.com/gashin_syoutan/n/n9e6d6a49ec8d
簡単に言えば、問題を解決しようというのがパフォーマティブで、問題を解決したくないのがコンスタティブ。
2022年3月28日
枝野さん、オンラインで憲法対話集会を開き、憲法改正に意欲をみせる自民党を牽制し、「民主主義イコール多数決ではない」と、またまたトートロジーでコンスタティブなんだから(笑)。
ハンス•ケルゼンによれば、民主主義の本質は、多数決の決定と少数派の保護であり、多数決の否定ではありません(キッパリ(笑))。
過去には少数派でしたが、今や、多数派となった改憲議論派。
これは少数意見を排除しなかった結果です。
しかし、国民の権利の侵害である「議論しなすらしない」という主張は保護されるべき少数派でなく、民主主義への反逆者(笑)。
ケルゼンは、自己の意志にのみ従うという意味での自由を民主主義の根拠としたのであり、組合や宗教団体の組織票に頼る投票など、自由を行使しているとは言わないでしょう。
組織票に頼らない人による政策決定であるなら、多数決の結果は正当であり、自由の実現に寄与するのですから。
議論した結果、多数決によって軍事力増強が政治決定されるかもしれませんし、反対に、国民が vital interest である国防に対して非暴力手段の採用を選択するかもしれないのです。
議論した結果の政治的決定であるなら、改憲反対派も改憲推進派も不承不承従うのが民主主義ってもんでしょう。
ギリシア神話で正義は、デイケーという女神が不正を行う人間を監視し、時に報復をもたらす、として語られました。
でも、中国やロシアに対して監視を行い、報復をもたらす女神は国際社会にはいません。
この現状に目をつぶって、非暴力の形式的理想に固執し、日本から他国への無危害ばかりを要求するというのは、現実無視の欺瞞の教えであり、不作為の罪と呼ぶべきものであることは明らかです。
ーーー 続く