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書評 ひらあやまり

嬉野雅道

この人の名前を、どれだけの人が知っているでしょう。

水曜どうでしょうのディレクターの一人であり、カメラマンであり、北海道テレビの平社員で、会社の就業時間中に会社の会議室を占拠して、カフェを始めている男。

何か仕事をしているのかと言えば、喫緊の仕事というものは持っていない。内線電話もかかってこない。何せ会議室を占拠して、手回しのミルを持ってきて、珈琲豆をその場で引いて、引き立てのコーヒーを無料で社員にふるまっているほどです。

何かあったらすぐにバッシングが来るこのご時世。恐ろしいほど不寛容な時代。笑って許してくれる可能性は非常に低い。そんなご時世に、50代の窓際族サラリーマンが、許可も取らずに北海道テレビの会議室を占拠してカフェを始める。それが許されるという事は、実は世界は意外と平和で、居場所もあって、いろいろ許されるんだという実証です。そしてそんな実証を何度も目撃する事の積み重ねが、人の意識を変えていく唯一の道のりなのです。

そんな「平和」と「許容」の「実証」を、数多く目撃させてくれる。追体験させてくれるのが、嬉野雅道の「ひらあやまり」です。

電車の中で涙を流す

私はこの本を、帰りの電車の中で読んでいました。そうしたら、電車の中なのに、涙がぼろぼろ流れてきたのです。文章を読んでいるうちに、何か得体のしれないものが体をめぐって、形にならないものが喉の奥から溢れそうになって、出さないように飲み込んだらそれが今度は頭のてっぺんに上って、一気に目から涙となってあふれ出たのです。周りにいる人が驚きと心配が混じった眼で自分を見たのを覚えています。

で、読むのを一回辞めて、気を紛らわせていると、あっという間に涙はおさまったのです。あれだけ泣いたらしゃっくりぐらい出そうなものなのに、全く何もなく終わったのです。それでいて心はすっきりしている。

あれ? と思って電車を降りて、山手線から東海道線に乗り換えて、熱海行き電車の中で再び読んでみたら、また同じように泣いてしまった。これはいけないと思って読むのをやめたら、また同じように止まった。そして家に帰って読んでみたらまた泣いて・・・。そして今回読み返して、また泣いているのです。

優しい言霊で紡がれる祝詞

一つの章の文章全てがつながっていて、どこかを切り取ると魅力は半減どころか雲散霧消してしまう。そんな嬉野雅道の文章を、大泉洋は「魔力がある」と表現します。

その通り、魔力があるのです。でもその魔力は、何かこう、自然に対して「聞け!」「動け!」「やれ!」みたいに、脅迫して雷を出させたり、炎を出させたりするような魔力じゃない。とにかく優しく、淡々と、でも温かく言葉を続けた結果、いつの間にか固く結ばれていた紐がほどけている・・・神道の祝詞のように、綺麗に世界が動かされていくような魔力です。

なにか心にひっかかっている人がいます。こうなったら幸せなのにとか、こうなるべきなんじゃないかとか、なにか「こう」と、決まった考えや答えがあるはずなのに、いざ言葉にしようとしたり、形に表そうとするとそれが出来なくて、「こう」「こう」と代名詞でしか表現できない人がいます。

実はそれは誰でも持っていて、形にできなくて、分からなくって、ずっともやもやしていて、ちくちくしていて、生きれば生きるほど積もり積もっているものがある。それを嬉野雅道は、同じように一つ一つ言葉を積もらせ、積み上げた先にあるところに自分の考えを見出し、言葉にするのですが、それは「積もり積もった」ものの上にあるから価値があるのです。その一部だけを取り出したら価値は落ちる。

深い自省と優しいまなざしと、穏やかな人間らしさから出てくる言葉は、切り取ってしまうと味気なくなります。呪文や祈りは、途中から始めたり、途中で終わってしまうと意味がなくなるというのは、嬉野雅道の文章の事を意味します。

それでも、一部だけは引用したいと思います。で、実際に打ち込んでみると、長文過ぎてどうしてもカットせざるを得ません。でも、呪文の魔力はカットされると失われてしまうのです。だからどうか、実際の文章を読んでください。

私の気持ちはずっと行き詰っていたのです。
私がニッポン人として、このニッポンという国で毎日快適に暮らしているうちに。生まれてからずっと幸福しか知らなかったのに、なんだか、だんだんその幸福というものがよく分からなくなって、世の中はものすごい速さでどんどん便利になっていって、便利になるそのスピードが年々アップしていって、昨日より便利になったことの幸せを今日感じる前に、今日またさらに便利になるものだから、幸福を感じるより先に便利じゃないことにストレスを感じるようになってしまい。だから「いや、ちょっと待て」と、「一回どっかで止まればどうだ」と、「立ち止まれニッポン」と、「立ち止まらんことには、なにも考えられんぞ」「現在位置が確認できなきゃ地図も見れんだろう」と、地図も見れないバカでもそう常々思っていたわけだけど、でも時代は止まらない。
みんなと同じ時代を生きているのに、自分は自分が生きているこの時代を居心地が好いとは素直に思えない。こうまで次から次へと加速度を上げて便利にされてしまうのは、いったい誰が望んでのことなのだろう、これは誰のための進歩なのだろう、それが分からなくて、そのうち、そんなことの積み重ねが疎外感にも感じられて・・・・・・それで私はひとり勝手に行き詰っていたという・・・・・・そういう現実がまず先にあったと思います。
・・・中略・・・
でも、あれは「水曜どうでしょう」のアフリカロケから帰った年(2013年)の夏です。「風立ちぬ」というアニメを映画館の暗闇で見るうち。私は気づいた気がしたんです。
「あぁ・・・・・・どんな時代に生きていたって、未来はあるんだな・・・・・」って。「未来はいつだって希望の中にあるんだな・・・・・・」って。もちろん、私があの映画を誤読しているだけなのかもしれないのですが、あの「風立ちぬ」という映画の持つなにかが、私の中のスイッチに触れたと思うのです。・・・中略・・・
「人類の視点」それは個として生きる私が、私という限界から自由になれる高みまで私を導いてくれる視点です。・・・中略・・・
私は自分が何の役に立っているかを知らないのです。でも私は生きている。生きているのなら、それは「生きていていいのだ」と私以外の誰かに生きることを許されているからであり、許されるのは、きっと私がなにか役に立つことをしていると気づく他人がいてくれるから、と。私はもうそう考えていいと思っているのです。ただ、私がなにをしているのか、それは私には一向に見えはしない。だったらそれはもう私個人の視点からは見えないこと。それは個を離れた「人類の視点」からしか見えないこと。そのことを私は果たそうとしている。だから生きている。生かされている。
・・・中略・・・
私は何処へ向かおうとしているのでしょう。それは、どこまでも自分に問いかけるしかないことです。でも、問いかけても問いかけても、自分がどこへ向かおうとしているのか、それはまだ自分も知らないのです。おかしな話ですが、でも私には、もうそれで好いと思えるのです。


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