入道雲と鶏眼(#シロクマ文芸部)
夏の雲を恨めし気に見上げながら、まさるくんは涙を袖口でぬぐった。
そして動けないで立ちすんでいる私を睨み「こっち見んなっ!」と吐き捨てて、ドアを乱暴に閉じて家の中に消えていった。
まさるくんは私が10才の頃まで同じアパートに住んでいた2歳年上の男の子のことで、いつも上目遣いで鋭い目つきをしていた。でもそれがかえってミステリアスに感じられて、当時の女の子たちからは、少なからず人気があった。
学校から帰って来ると、私を含め年齢の近い近所の子どもたちと徒党を組んで一緒に遊ぶこともあったが、当時人気だったアントニオ猪木やジャンボ鶴田のファンだったまさるくんは、必ずプロレスごっこを始めるので、頃合いを見計らって私はサッサと退散することにしていた。
その後は泣きながら帰っていく男の子たちの姿を見ることもあったから、手加減なしでプロレスの技を掛けていたのかもしれない。近所の大人たちは「乱暴者のあの子と遊んではダメ!」と注意することも度々だった。
そんなまさるくんだから、お祭りの露店でヒヨコの雛を買って貰ったと喜んでいるのを見ても、いつか殺してしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。
その日の午後も、私は学校から帰って近所の女の子と縄跳びをして遊んでいた。
すると突然、まさるくんがランドセルを背負ったまま、走ってアパートの家の中に逃げ込んだ。
同級生だと思われる男の子が3人、後からまさるくんを追い込んで走ってくる。
家の中に逃げ込んだまさるくんは、家のドアをピシャリと閉め鍵をかけ出てこない。
「おい!出てこいよーー!!」とひとりの子が叫ぶと、もうひとりも何か叫びながらドアを蹴った。
そして最後のひとりがドアめがけて石を投げた。
ドアの飾りガラスが大きくガシャーンと音を立てて、割れた破片が飛び散った。
それを合図にしたように、男の子達は走り去っていった。
それまで私と一緒に遊んでいた近所の女の子も、恐くなって泣きながら帰っていってしまった。
一瞬の出来事だった。
この一瞬の事件を見ていたのは私だけではなかった。
買い物帰りだったのか、籠を抱えたまま井戸端会議をしていた近所のおばさんたちも、その一部始終を見ていたのだ。
そして、嵐の後の沈黙を破るように、そっと囁きだした。
「あの子のお母さん、浮気相手と一緒に家を出て行ったらしいわよ」
「これからどうするのかしらねぇ~。ご主人ひとりで育てる気かしら?」
「苛められてるのかも知れないわね。お母さんのことで」
私はどうしていいのか、考えもつかずに、まさるくんのいるドアの前まで、ゆっくりと歩いていった。
ドアの前にはガラスの破片が散らばっていた。
玄関の横では、もう立派な雄鶏に成長した鶏が爬虫類のような目で私を睨んだ。
ドアをノックをしようとして、ためらわれ、
声も掛けられずに、
私はそこから動けずにいた。
胸を締め付けられたのは、ガラスが割れたドアの向こう側から聞こえてくる、まさるくんの嗚咽だった。
その後のまさるくんのことはよく覚えていない。一緒に遊ぶこともあったかもしれないし、学校ですれ違うこともあったと思う。
新学期を迎える前にまさるくんは引っ越ししてしまったので、私の日常からまさるくんの存在は消えてしまった。
ただ時折もくもくと湧き上がる夏の入道雲を見ると、まさるくんの行方が無性に気に掛かる。割れた窓ガラスと突き刺すような鶏眼が、私の記憶の奥で、小さな痛みになって今でもズキズキと疼いている。