見出し画像

✟感情がない✟

ティンカーベル初野っぽいタイトルにしてみた。
今日は自分の感情についての話。

感情というか欲求というか。
普段私は、好きなこととか楽しそうなことに向かって深く考えずに進んでいく。でも、ふと自分はどうしたいかについて考えたとき、すぐには自分の気持ちが分からずに、色々理論立てて考えた上で感情や行動を決定している事がある。
好奇心の赴くままノリと勢いで行動する一方で、"自分の決めたモラル"に己の行動が反していないかとか、"以前自分が腹落ちした論理・思考パターン"から逸脱していないかとか、その感情に筋が通ってることを確認してから行動に移してたりする。

自分で言うのもあれだけど、私はマズローの5段階欲求の承認欲求と自己実現欲の間を地縛霊のように彷徨っている。自己実現の延長線上に、"自分の思考に沿う、一貫性を持った行動を自分にして欲しい"という欲求がある。この欲求が私の行動と感情に大きく影響している、と思う。
粘菌アメーバ的な自分と論理哲学的な自分を内包しているのだ。矛盾してるのは私も分かっている。でもそうなんだもん。


この刺激を求めて脊髄で行動する自分と、(自分の中では)整合性のとれた意思決定で行動する自分。普段はぼちぼち両立していていると思っていて、私のこの部分を好いてくれる人のことが私は好きだ。
ただしアメーバとウィトゲンシュタインにとてつもない乖離があるように、私も時々分裂してしまう。今そうなってて困っている。


目の前にすごく楽しそうなことが転がっていて、なにも考えずにこれに飛びつきたい。欲望のまま楽しいことを満喫したい。そうすれば好奇心もすごく満たされそう、という状況にいる。
しかし、これを実行すると私が考えるモラルから逸脱するし、以前構築した思考と整合性が取れない部分が出てくる。整合性が取れないのは、そのあとの行動がめちゃくちゃになるだけだからまあいいけど、自分のモラルから逸脱している、という事実は多分すごく萎える気がする。あとあと引きずってしまいそうだから出来れば避けたい。でも私の優先順位は"興味・好奇心≫モラル・論理性"なのだ。非常に困った。


本筋からずれるけど、私は論理性とか理論っていうのは社会的弱者の武器だと思っている。なぜなら、考えて行動しないと自分に自信がないから。
実際、私も自分のこと好きって言いながら、どこかで自信がないから理屈を捏ねくり回してるんだと思う。
ちなみに…私の考える"社会的弱者"ってのは、地位とかお金とかそんなのじゃなく、人間として社会に迎合されてるかどうかってことです。えへへ。
(ここからやばいこと書くので先に謝ります)
男性に論理的な人が多い、みたいなのがあると思うけど、これも同じ理屈で、だって若い女性は比較的誰からも優しくされるし、あたたかく対応してもらえるからそこまで理論武装する必要がない。しかしそれ以外の人間は標準装備が丸腰なので論理性を持つ方が人に受け入れられる可能性が高い。社会性として理論を装備してる人が多いんじゃないかな。とか最近思ったりした。
誰も幸せにならないこと言ってしまったので話を戻す。


他にも、社会生活を送る上で自分のモラルが一般的な道徳に抵触する場合は、折れるか隠さないといけないし、そもそも他人とのコミュニケーションなんてのはイレギュラーだらけだから毎度自分のルールに固執してたらおもんない奴として取り残されてしまう。塩梅が難しいなあ。


幸い時間は無限にある。
でも考えれば考えるほど一貫性のある自分を求める方の主張が力を伸ばす気もする。自分が納得するならそれが正解なのかもなあ。
ただ、自分の精神が幼いから理想を追いかけてるだけの可能性もある。
というか、考えた結果で好奇心を優先したらそれ頭で考えてない?もうこの入れ子構造から逃れられないのでは。でもさ、1回きりの人生だし、全て直感で動いたほうがよくない?
だいたいこのことについて考え始めると、途中から違う切り口の考えが現れて、結局複数の理論が発散して、気が付いたら飽きて他のことに興味が持っていかれる。


そういえば最近考え事をしていて、ものを貰う人について感じたことがある。
私はものをあげたがる。奢りたがりもたぶん、ある。でも誰にでもあげたい訳じゃなくて、大抵あげたい人は決まってる。その人選の基準はよく分からない。"好き"はもちろんあるだろうけど。
ふとそれで思ったのは、あげる側より貰う側がすごくない?ということ。ものをあげたり奢ったりするときって、あげる側の意思から一連の出来事が始まってると思いがちだけど、「してあげたい」と私に思わせてる訳だから、その相手に力があると感じる。私にそう思わせなかったらものの受け渡しは成立しないし。
だから「あげる人<貰う人」なのだ。
この間スタバで"次回なんでもタダで飲めるレシート"が出てきて、かわいがっている後輩にあげようとした時にそれを思った。


あともう一個、noteの1記事にするほどでもない話。
これも最近気付いたんだけど、私は人と仲良くなったサインとして、"固有名詞が出る"というのがある。仲良い友達と先輩のAさんについて話をするとして、「先輩が〜」とは言わずに、「Aさんがさ〜」と言ったり、逆に仲の良いBちゃんの話をするときに「私の友達が〜」ではなく「Bちゃんが〜」と話しだす。
気を許し始めると友達、先輩、みたいに肩書じゃなくて固有名詞を出したくなるみたい。だからなんだ、てね。
ここ最近、色々あって昔より仲良くなった先輩と後輩がいて、以前より固有名詞をよく使うようになったな〜と思った話。


感情の話をしてるはずがだいぶ遠くまで来てしまった。よくこれだけ自分の思ったことばっかり喋れるなあ。まああとで読み返すと面白いからいいんだけど。

最初の話題に戻るのも面倒だから今日はここで野宿してください。



おわり!

いいなと思ったら応援しよう!