【読書記録7】「論理」と「考える」は、別物。
皆さんいかがお過ごしでしょうか?
今回紹介する本は、野矢茂樹著『哲学な日々 考えさせない時代に抗して』(講談社)です。
論理学や哲学の著作を多く出している野矢茂樹氏のエッセイです。もともと野矢氏の著作は他の哲学者とは違い、比較的平易な言葉を使うので読みやすいものが多いのですが、このエッセイはさらに読みやすいので気軽に読めると思います。
なぜ論理が必要なのか
このエッセイの面白さは、哲学や論理などの難しい話が平易な語り口で語られるために、読者も身構えてこわばることなく、リラックスして読める点にあると思います。座禅や野矢氏の師匠である哲学者の大森荘蔵氏の話なども読んでいてとても面白いです。
特に、論理の必要性を説いているところは、多くの人に読んでほしい箇所です。少し引用します。
論理的でない人は仲間内の言葉しか話せない。仲間内の言葉しか話せないと、「よそ者」を単純に切り捨てて排除することになる。それが危険なことだというのは、改めて言うまでもないだろう。もちろん、よそ者排除ということはたんに言葉の問題だけではない。しかし、言葉の問題は大きい。知識や考え方をあまり共有していない外部に向けて発信できる強靭な言葉を持たなければいけない。だからこそ、論理が必要である。
つまり、論理がなければ、人は自分が属するコミュニティや世界に閉じこもってしまい、閉鎖的な集団や社会を形成してしまうということです。逆に、仲間内の言葉や常識では通じない他者や外部とコミュニケーションを取るためには、必ず論理が必要となるということです。
論理はコミュニケーションの中核をなすもの
コミュニケーション能力が大切だとよく喧伝されますが、そもそもコミュニケーション能力とは何なのでしょうか?一般に、コミュニケーション能力は「他者と意思疎通を上手に図る能力」だとされます。『哲学な日々』を読んで、私はその中核をなすのは「論理」だと思いました。
例えば、コミュニケーション能力は対話のスキルだと考える人が多いように思いますが、私は文章を読んだり書いたりすることも立派なコミュニケーションの1つだと思います。
作者や著者の言いたいことを読み取るには論理が必要で、このnoteで読者に自分の意見を、自分の思惑とは異なって受け取られないように書くためにはやはり論理が必要です。特に、自分の専門とは遠いものほど、理解したり、説明したりするのに、論理が必要だと感じます。
「論理」と「考える」は違うこと
さて、世の中、特にビジネス界隈では、論理的思考やロジカルシンキングの重要性が唱えられていますが、「論理的に考える」とはどういうことなのでしょうか?
『哲学な日々』において、野矢氏は「論理」と「考える」は全く異なることであると述べています。
「論理的に考える」などとよく言われるが、論理は考えることとは違う。考えることは答えに向けて飛躍すること、それに対し、論理は可能なかぎり飛躍をなくそうとすることである。
野矢氏によれば、「考える」とは、飛躍すること。それに対し、「論理」は飛躍をなくそうとすること。つまり、「論理」と「考える」は全く異なる作業であり、「論理的に考える」という言葉は、全く逆方向の行為を同時に行うということになってしまいます。
昔、何の本で読んだか忘れてしまいましたが、学生が先生に「哲学って論理的ですよね?」と言ったときに、その先生が「いや、哲学は極めて直観的なものだよ。ただそれが難解なために、説明したり、読んで理解したりするのに論理が必要なだけだよ」と言ったのを思い出しました。
よく「考える」ために「論理」を運用する
先ほど、「考える」と「論理」は異なるものだと書きました。野矢氏によれば、「考える」とは、飛躍つまり閃きです。逆に、「論理」はなるべく飛躍をなくすようにすること、つまりなるべく閃きに頼らないようにすることです。
論理は、問題を整理したり分析したりするのに力を発揮します。私たちは、複雑な問題を複雑なまま捉え、取り組み、解決することは困難です。問題を分析して、「問題と問題がどのように関係しているのか」、「その問題がどのような前提に依拠しているのか」を明らかにするのに必要なのが、堅実な論理力です。
野矢氏の言葉を引用します。
考える技術とは、どうやって答えを閃かせるかではなく、いかに問いをうまく立てるかという、問う技術なのである。
問題を整理するために、「論理」を用います。それによって、その問題をより良く「考える」ことができます。
リラックスして読む部分もあれば、このように深い洞察に基づいた文章も読むことができます。本書『哲学な日々』は、肩肘張らずに読める本でありながら哲学や論理の核心に触れることができる本なので、ぜひ多くの人に読んでもらいたいです。
今回は以上です。