第一部完にして自分との距離を実感「青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない」
前作「おでかけシスター」も映画館で鑑賞できましたが、本作も公開日に映画館で見ることが出来ました。
おでかけシスターに続き、静の描写がとても秀逸で、特に咲太と花楓が両親の住んでいるアパートを訪れるシーンでは、BGMすら控えめで、映画館に雨音と時折挟まれる二人の会話のみが響く、アニメではとても珍しいシーンになっていたと思いました。
今回のキーとなる咲太を誰も認識しなくなる現象は、彼の思春期症候群と理解すればいいんですよね。
別人格になった妹を育てつつ、一人で家事も行い、バイトをしながら高校生活を送ってきた咲太の感情が、思春期症候群を発症させたのでしょうか。
今回のエピソード、ストーリーとしてはとても良くできていたし、いい感じで高校編が終わったなー、と思いましたが、個人的にはあまり感情移入できませんでした。
それは私にとって、リアリティラインと親の役割を考えてしまう部分が大きかったことが原因です。
青春ブタ野郎シリーズは、ギャルゲーでよくある一人暮らしの男性主人公が、複数の少女と仲良くなったり、部屋に泊まりに来たりする展開を、思春期症候群を原因とした両親との別居によって説明しています。
その部分は理解できるのですが、「おでかけシスター」で花楓の進学について、かなり真摯な、逆を言えばリアリティラインが高めな現実に近い選択を提示したあたりから、私にとって本作の捉え方が変わってきました。
現実に即した方法で解決できるのであれば、そもそも咲太と花楓(かえで)の二人暮らし自体が「現実的」ではないため、世界観に浸れないんですよね……。
もっというと、そこは父親がしっかり現実的な解決を図るべき問題で、花楓の別人格についても、普通に入院させるなりして対処すべき問題じゃないか、という疑問がどうしても頭をよぎってしまうのです。
※アニメを一通り見ただけで、原作小説は未読なので私の理解不足な部分もあるかと思います。
そう考えると、時々電話したりして「元気にやってるか」と存在だけ示す父親に滅茶苦茶腹が立ってきまして。本作でも、いや本作こそ親の存在が必要なのにそういう部分を示さない、咲太が母親の存在をなかったことにしないと正気を保てないほどの状態で頑張っているのに、「いるだけ父親」みたいな描かれ方をしては駄目なのでは、と思ってしまいました。
多分私が本作を親目線で見てるから、こういう感想になるんだろうなあ。流石に子供が不憫すぎると思ってしまい、本作での解決に素直に感動できませんでした。
これがもう少しリアリティライン低め、思春期症候群のみをピックアップして、その解決に焦点を絞ったエピソードであれば楽しめるのですが、そもそも思春期症候群を解決しなくても対処できる部分があり、それが現実的方法で解決できると示されてしまうと、逆に見なかったことにしていた部分が気になってしまいました。
繰り返しになりますが、パラレルワールド的展開も、やや駆け足でしたが面白かったですし、演出は本当に丁寧で、良いアニメでした。シリーズも続けて見て良かったと思っています。